2009年12月 8日 (火)

☆『カールじいさんの空飛ぶ家』☆

7日(月曜)。
先週の木曜(夜)から日曜(夜)にかけて長旅(?)をこなし、しばらくブログの更新などが出来ずにいた。

PC世代&ヴァーチャル世代の悪い習性と言おうか(?)・・PCが手元にないならないで、それなりに(他にやることもあり)退屈などしないんだが・・ひとたび旅から戻れば、やれ「メールチェックだ」「デジカメ画像の転送だ」といきなり時間に追われてしまう。。
殆どが一方的な広告メールなんだが、イッキに300通以上もボックスに溜まってると、流石にタイトルを眺め下ろすだけで疲れっちまうなぁ(×_×)

さて本日。上記のような次第で1本も観れなかった週末だが、今日は珍しく残業もそこそこに済み、体力も(適度に)残されてたので「よし、1本観よう!」ってことで“ワーナー・マイカル・シネマズ高松”に行き、新作のデヅネィ(≒ピクサァ)系CGアニメーション『カールじいさんの空飛ぶ家』を観て来た☆

これはニッポンを始めとする高齢化社会に向け放たれた「起爆剤のような1作」とちゃうやろか!? ・・と期待しつつシアターに入ると、、ワタシともう1人しか観客がおらずびっくり! おったまげ! みんな『曲※れ!スプ※ン』にでも行っとるんやろか・・?(⌒〜⌒ι)

高名な冒険家チャールズ・マンツに憧れる少年=カール・フレドリクセンは、彼が(モノクロの)実録映画の中で語った「南アフリカにある“伝説の地”=パラダイスの滝」への想いを募らせていた。

そんなある日、カール少年は近所に住む男勝りの女の子=エリーに出会う。彼同様、マンツに憧れるエリーはたちまちカールと意気投合。
これが彼らの初恋であり、“運命の人”同士だった彼らが結ばれるのに、さほど大きな障害は立ち塞がらなかった。

子宝にこそ恵まれなかった2人だが、妻は夫を愛し、夫も妻を深く愛していた。

・・やがて、死が夫婦を分かつ。

そして今。亡くなったエリーとの思い出の家を頑固に護るカールじいさんだったが、周辺には開発の波が押し寄せていた。
「とある事件」を起こしてしまった彼は、家を残しての「シェイディ・オークス」なる老人施設への送致処分を受ける。

施設の担当者が迎えに来た朝。彼らが眼を離した一瞬の隙をつき、カールじいさんは“とある仕掛け”を作動させる。
次の瞬間、じいさんは思い出の詰まった家と共に、大空へと浮かび上がる! 屋根の上で塊となった、数万の風船と共に・・

じいさんの目指すは、愛妻エリーとの約束の地「パラダイスの滝」・・しかし、そこでは意外な運命が“彼ら”を待つのだった・・

概ね「無難な造り」でそつなく物語は進むんだが、、正直、ワタシの期待してた展開とは全く異なっており、その意味では“残念でした”な1作でもあった。

ワタシの観たかったのは「旅立ち⇒道中の各地における出会いと別離⇒目的地への到着と亡き妻を巡る意外な真相」ってな感じのストーリーだったんだが・・実際は「パラダイスの滝」界隈にあっという間に到着してしまう! 大した盛り上がりもなく!
かつ、そこから先は妙なキャラ群が絡んで来ることとなるんだが、、こいつらが何とも「月並」で「薄く」て、、ズバリ言うとしょ〜もなかった(×_×)

序盤のカールじいさんの若い頃のエピソード群の描き方が凄まじかっただけに、中盤以降の盛り下がりぶりには“何とも言えぬしょっぱさ”を感じ続けてしまったワタシ。

背景のペラッペラなキャラ(←物理的にではない)が殆どで、彼らに対し「何の感情移入も出来なかった」のも痛い、正直言うと。

作品全体からも、如何にも『天空の城ラピュタ(1986)』『ハウルの動く城(2004)』『ふしぎの海のナディア(1990)』と言った“先駆者”らのテイストをどっかパクったようなしょ〜もなさがチラホラ。

ワタシの観たいのは『ストレイト・ストーリー(1999)』路線だったんだけどネ。。

〜 こんなトコも 〜

♦若き日の夫妻。ポストに“カール&エリー”とペイントした2人だが、カール氏が直後に誤って「手形」を着けてしまう・・この次の瞬間のエリーのとった行動に妙に感動してしまった。このシーンがワタシの中では本作のピークである(=^_^=) ←めちゃ序盤じゃん!
♦マンツの飛行船“アドベンチャー号”の重さは警察のワゴン車両22台ぶんより軽いそうだ。ピンと来ねぇなぁ。
♦黒スーツ&グラサンのキャラたち。「こいつらは後々絡んで来るな・・」と思いきや、、
♦「ネクタイの装着」を次々に映すことでカールじいさんの人生が足早に語られる。この演出は面白い。
♦ラッセルがいつポーチに潜り込んだのか、時間的にちと不自然な気がする・・(・ω・)
♦鴫(シギ)をスナイプ(snipe)と言うことを知った。ウェズリーな感じやね(=^_^=)
♦「吊り下げ」と言う体罰的(?)な妄想シーンも妙に映った。。
♦元ネタの1つは「風船おじさん騒動」ではなかろうか? ウィキペディアで「鈴木嘉和氏」の名前でお調べ下さい(・ω・)
♦ゴムホースはあんなに強いもんやろか?
♦風船数個(?)の調節で、あんなに微妙な昇降の操作が出来るんやろか?
♦「ヘリウム(の維持)は3日が限界」とか言ってたじいさん。アメリカから南アフリカまで3日以内で到達出来たの?
♦ラッセルの父親像が全く浮かんで来なかった(・ω・)
♦劇中でカールじいさんは「プルーン臭い男」と呼ばれてた。加齢臭ってこと?(×_×)
♦すらすら「ソマリアヒョウモンガメ」「アルソナル(?)テリウム」などの生物名が出て来るのもスゴい。
♦「ルーズベルトとも旅をした」ってなセリフは許せるが「SDカード」って単語は劇中で(正直)聞きたくなかった。
♦“グレー隊”と呼ばれる特殊飛行隊が後半で登場するが、あの無茶苦茶さには失笑させられた。やり過ぎやろ!

〜 こんなセリフもありました 〜

カール「この家が欲しいのか? 呉れてやるさ、わしが死んだらな」
   「触るな! それはわしらの郵便受けだ」
   「エリー、どうしたらいい?」
   「わしとゲームしよう。どっちが長く黙っていられるか」
   「いいさ、只の家だ」
   「お前の無事でいることこそが最上の手助けだ」

エリー「噛み付きゃしないわよ」
   「Go on(ほら)」
   「Take care(オッス!)」
   「あんたがあたしを連れてってよ」
   「十字を切って誓ってよ(Cross your heart)」
   “STUFF I'm going to do(これから先の冒険)”
   “新しい冒険を始めてね”

ラッセル「南アフリカに虎なんかいないよ」
    「自然界って、期待してたのと違う世界だな」
    「つまんないことの方が、良く覚えてるんだ」

※※※「何とマヌケな乗り物だ」
   「ところでアメリカはどうだ?」

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2009年10月28日 (水)

☆『きみがぼくを見つけた日』☆

27日(火曜)。
決めてた通り、休暇を頂いた。
目覚まし時計ばかりは思いっきり早朝に仕掛けてたんだが・・ガバッと本格的に起き出した時には、午前11時を過ぎていた・・ウボアー!(×_×)

久々に掃除機をかけたり、洗い物をしたり、と家庭的なことをやってたが・・『ワイルド・スピード』関係のネタをネットで調べてたら、いきなりクルマに乗りたくなり、既に時刻は夕方に迫りつつあったが出かけたのだった。

手頃なドライヴ先と言えば・・真っ先に思い付く(=^_^=)“ワーナー・マイカル・シネマズ綾川”へと。
ここで、期待値の高まってた1作『きみがぼくを見つけた日』を観て来た☆

6歳のクリスマスの夜に起こった悲しい出来事を皮切りに、ヘンリー・デタンブル(エリック・バナ)は“望むと望まざるに関わらず”時間移動を頻繁に体験するようになる。
しかし彼の場合、時代や場所を特定して“飛ぶ”ことは出来ず、それ故に“未来に起こることの分かっている悲劇”を事前に救おうと試みても、間に合わないのだった。

そんなある日、シカゴの公立図書館(←ニューベリー図書館らしい)の書庫に“飛び戻った”彼は、直後「ヘンリー、あなたなのね?」と美しい女性に声をかけられる。
彼女のことを知らず戸惑うヘンリーに、その女性=クレア・アブシャー(レイチェル・マクアダムス)は「6歳の時に初めてあなたに会ったの、あの野原で・・」と語り始めるのだった。

ヘンリーがクレアに出会ったのは“運命”なのか?
次第に惹かれ合って行く2人だが、彼らの前には幾つもの試練が横たわっていたのだ・・

原題が“The Time Traveler's Wife”となってるように、本作の「軸」となる存在はやはりクレアなのだろう。基本は彼女の「待ち続ける姿」を様々なシーンの中で我々は見せられることとなる。

ヘンリーにとっては“試練と葛藤の連続”なのだが、クレアが“生来のロマンス体質”で彼をいつも&いつまでも待ち続けるので、さほど物語に悲壮感は漂ってなかったりする(・ω・)

どうも、ヘンリーばかりが「過去&未来を飛び回る凄まじい能力を持つのに、たった1人の女性に翻弄されまくる」のに対し、クレアは“確信的な何か”を心中にキープし続け、しっかりと生きてたように見えた。
ひょっとしたら「ヘンリーを愛してた」のではなく「ヘンリーを愛する自分を愛してた」のかも知んない(⌒〜⌒ι)

時間移動って言うと、物語的に「モノ凄い風呂敷の広げ方も可能」な訳だが・・本作の場合、移動エリアのかなり狭い感があった。かつ「目撃者が多い」「研究者まで現れる」「別な時代の自分に触れたりする←コレが『タイムコップ(1994)』の世界観だとエラいことになる!」と言った“独自の解釈”が弾けてたな。

私的には・・ヘンリー&クレアの物語ばかりを楽しみたかった訳だが、後半からはちと“重要キャラ”が乱入してしまい、2人のドラマが何処か薄れてしまい、クレアの立ち位置が数歩ほど後退してしまった印象もあった。

もうちと何とかならんかったモノだろうか、脚本(・ω・)

レイチェルさんに関しては、初登場の瞬間こそ「ほぇぇぇ!」とその可愛さにブーツ飛んでしまったが、、慣れて来るとあんまり可愛くもないかな? と自分勝手に評価を落ち着かせてしまうのだった(すんません)。
確かに美人は美人なんだけど、表情が変化する際に「バランスが崩れる」みたいな感じ(どんな感じ?)があるのだ。アン・ハサウェイちゃんにも(ちょいとばかし)そう言うトコがあるんだけど。

一方のエリック氏はどやろ? もう少しキャラ的にインパクトがあっても良かったかも、コレも難しい配役だけど。

〜 こんなトコも 〜

♦製作スタッフの1人にブラッド・ピットの名が! スゴいなぁ、チャドくん(=^_^=)
♦本作、原題から『ノイズ(1999)』を連想してしまった。あちゃらは“The Astronaut's Wife”でしたな(=^_^=)
♦『タイムマシン(2002)』でもそうだったが、どうやら悲劇は「雪の夜に起こるケース」が多いらしい(・ω・)
♦子供が(能力的に)父を超えてる辺りは『フォレスト・ガンプ/一期一会(1994)』を何処となく彷彿とさせる。
♦「基本的に悪人のいない世界やん」と安心して観てたら・・銃を持ったしとが出て来てびっくり。。
♦クレアたちの新居の台所に貼ってたポスター・・でっかく“クリスマス商戦”と日本語で書いてあって笑えた。
♦『指環物語』や“ケルムスコット・プレス”なんかの、読書家がピクッと反応しそうなネタがセリフにあった。
♦「飲酒がタイムトラベルの引き金となる」「タイムトラベルの瞬間、脳が電磁エネルギー(≒オーラ)を放つ」「タイムトラベルは“遺伝子異常”による」「トラベラーは“時間障害”と診断される」などの独自解釈が楽しい☆
♦「目隠しして1000数えて」と言われたクレア。数え方が「1、2、3、、400、600、800、1000」・・ってそれやと7秒やん!
♦クレアの生年月日は「1972年5月24日」とのこと(確か)。
♦ヘンリーとクレアの親父さんは・・いわゆる“体格一致”らしい(=^_^=)
♦クレアちゃんの左ヒップに小さなタトゥー! 一瞬なので、見逃すな!(いや、見逃してエエって)
♦ゴモリンスキーの愛称が“ゴメス”らしい。
♦地下鉄でとある乗客の読んでた新聞の見出しに「ベトナム戦争、泥沼化」と。1969〜70年辺りか?
♦ヘンリーの父は寡黙であるが故に涙を誘うキャラだ。「未だに恋しい・・毎日想ってる」にはウルッと来ました(⌒〜⌒ι)
♦ヘンリーの肌に触りつつ「何て若いのかしら・・」と呟くクレア。『ベンジャミン・バトン/数奇な人生(2008)』後半のケイト・ブランシェット(デイジー役)を想起させる、感慨深いセリフだった。
♦ケンドリック博士のキャラは、もっとインパクトがあっても良かった。
♦監督:ポール・バーホーベン&主演:ケヴィン・ベーコンで「時間移動をする主人公が、やがてその副作用(?)で心を邪悪に染めて行く」みたいなサスペンス作が観たい(=^_^=)
♦意外なトコから“女性のタイムトラベラー”が登場するんだが・・“全裸問題”にはどう対処しとるんだろ?
♦“パイプカット”なる表現を耳にしたのは『ダーティーハリー4(1983)』の序盤以来である(・ω・)

〜 こんなセリフもありました 〜

ヘンリー「まただ・・」
    「旅をする時、服は持って来れないんだ・・この次は服を持って来てくれると嬉しいな」
    「また来るよ、何度もね」
    「過去の人に会っても、その死を防ぐことは出来ない・・試みたがダメだった」
    「何してるかって? 見ての通り“不法侵入”さ」
    「未来は知らない方がいい」
    「“失ったら耐えられない存在”は作るまいと思った・・しかしもう遅い」
    「決め手は美や知性じゃない・・君のくれる“安心感”だ」
    「流れが速まり“飛行”が頻繁に起こっている」
    「“待つ人生”は送らないで」

ヘンリー「僕って、何て歌がヘタクソ」
アネット「自分の歌い方でいいのよ、ヘンリー」

利用客「(本を探すにしては)遅かったな」
ヘンリー「“大冒険”でね」

クレア「“見つけても普通にしてろ”ってあなたに言われたのに・・ダメよね」
   「“一気に話すな”とあなたに言われたのに・・つい」
   「ずっと恋していたの、あなたに」
   「あなた“替え玉”ね」
   「あら、、“新顔”ね?」
   「私の人生は止まってはいないのよ」
   「何を話せと? あなたをただ待ち続ける辛さ?」
   「人は生まれ、生きて、年老いて、死ぬの。それは仕方のないことよ」
   「何も変えずにいるわ。たとえ束の間でも、会いに来てくれるのを待ってる」

クレア「(彼を想う)この気持ちはもう巻き戻せないわ」
ゴメス「こりゃ相当、重症だな」

ゴメス「俺たちが“正常”だと仮定してだな・・」

ヘンリー「君は僕の事情を?」
クレア「知ってるわ、6歳の時からね」

クレア「あなたが未来のことを言ったの、初めてね」
ヘンリー「君に心配して欲しくない」

クレア「こんなの不正だわ」
ヘンリー「じゃ(当たりクジを)破って棄てよう」
クレア「・・ダメよ!」

クレア「彼とは別々の部屋で寝たわ・ケンカしたの」
ヘンリー「分かるよ。何たって嫌なヤツだからな」

チャリス「恋は熱病のようなものよ・・誰にとってもね」

ヘンリー「あなたは息子さんに愛されてますよ」
※※※※「分かってる」

※※※※「彼女に、想いを伝えてね」

ヘンリー「心の傷は酒じゃ癒えない」
父「・・癒えるさ」

ヘンリー「この力も役には立つ」
父「では、あの事故を防いだらどうだ?」

ヘンリー「クレアの父親は“共和党支持者”で“ハンター”だ」
父「それは参ったな」

クレアの父「良く言うだろ? “人生は狩り”だと」
     「どう言うことだ? (新郎が)白髪になっとる」

ヘンリー「明日は結婚式だ。バッサリやってくれ(Cut it off.)」
床屋「お2人ともが満足するよう、仕上げましょう」 ←美味しいセリフやな〜(=^_^=)

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2009年10月 9日 (金)

☆『刑事コロンボ/構想の死角(1971)』☆

8日(木曜)の夜。
出張で、愛媛県宇和島市に来ている。1泊2日の旅の空であるが、仕事のことはまぁ置いといて・・(=^_^=)

夕食を摂った市内の某居酒屋で、面白い発見があった(←ワタシは出張時の“独り居酒屋”が割と好きである)。

その店の壁には、ロータス社のライトウェイト・スポーツカー“ヨーロッパ”の写真が何枚も見受けられ「レース関係の方が集まる店なんですか?」とオーナーさんに訊ねたトコロ、何とオーナーさんご自身が“ヨーロッパ”を所有し、レース等にも参加されているとのこと!

あんまり詳しくはないモノの、知ってる限りの雑学知識を総動員し(=^_^=)
「やっぱり“フロント・スタビライザー”が弱点なんですか?」
「シートポジションが低過ぎ、運転中は“車窓からガードレールしか見えない”ってホントですか?」
などなど、質問してみた。

このオーナーさんは、前車も“トヨタ800”だったと仰られ、筋金入りの“スポーツカー好き”なんやなぁ・・と羨ましく思えた次第。

それに引き替え・・ワタシなんぞは正直、クルマの使用状況(シチュエーション)から考えるに「2シーターの軽量スポーツカー」で十分だし、それが一番似合ってる筈なのに、、何となくとても非効率な(?)「4ドアの重量級セダン」に乗り続けてる訳で(・ω・)

でもその一方で「もっとワタシも自分のクルマに愛着を持たなきゃ!」と励まされもした今夜。
出張から戻ったら、この週末は久々に中距離ドライヴを楽しもうかな〜と考え始めている☆


夕食後“ほろ酔い状態”でホテルの部屋へと戻り、衛星第2で放送された『刑事コロンボ/構想の死角』を観た☆
考えると、家人が“コロンボファン”でもあり、子供の頃から(お茶の間で)シリーズの何作品かの鑑賞に付き合わされた(=^_^=)こともあり、幾つかのエピソードには“断片的ながらも強烈な印象”を持ってもいる。
だが、特に『刑事コロンボ/殺人処方箋(1968)』と本作は「全くその内容やシーンが(記憶の中に)思い浮かばず」日々苦しい想いをつのらせて来た作品だけに、今夜の放送はとても嬉しい訳だ!

余りに嬉しくて、自宅でも録画予約しちゃったりしている(=^_^=)
⇒結論的に、DVDには焼かない(=保存しない)つもりであるが・・(・ω・)

“メルビル夫人シリーズ”で有名な、ベストセラー推理作家コンビ=ジム・フェリス&ケン・フランクリンは、最新の15作目を最後に、長年のコンビを解消することとなる。

だが、実際には(全作の)プロット&執筆はジムが1人で行っており、ケンには推理作家としての才能は皆無であった。。

コンビが解消されたら「たちまち喰いっぱぐれてしまう」ケン(ジャック・キャシディ)は巧妙なトリックでジムを亡き者にし、別な第3者の仕業に仕立て上げようとする・・

だがそんなケンの前に、ロス市警からやって来たよれよれコートのコロンボ警部(ピーター・フォーク)が立ちはだかるのだった。

冒頭の“PETER FOLK AS COLUMBO”の表示にまずワクワクする!
演出&監督が若き日のスティーヴン・スピルバーグだと言うことにも!

しかし、、作品自体は「タイトル負けしてる」と言おうか、トリックが実にお粗末だし(←細かい部分で「ロス市警の鑑識チーム」を舐めてるとしか思えない)犯人のキャラにも感情移入出来るトコロがなく、総じてイマイチな出来だった。

中でも一番「スゴい」のは、中盤以降で重要な絡み方をして来る雑貨店の未亡人=ラサンカさん。
この方のビジュアル・インパクトがスゴ過ぎて(⌒〜⌒ι) 途中からはストーリーどころじゃなかった(←ラサンカ役の女優さん、済みません)

アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい(1960)』同様に、犯人が予想外の展開から“余りにお粗末な第2幕”を演じることとなるが・・これがまた短絡的過ぎてムチャクチャ。捜査する警察側の見解もそれに負けじとムチャクチャだった。。

ラストが何やら唐突で「もう1手、欲しかったぞ?」とも感じてしまったが・・寸前のコロンボの攻め方が完全に「相手を怒らせる作戦」だったので「ああ、そこをくすぐったから、すぐに“落ち”てしまったんやなぁ」と納得した次第。

それにしても、犯人が饒舌過ぎて、みるみる“自滅の道”を辿ってしまってたように感じたのはワタシだけだろうか?
勝手なプロットをコロンボに吹き込むんだが、そんなことをするから、すぐに怪しまれてしまうのだ(・ω・)

それは仕事についても言えることで、時に反省もしなきゃならないトコだが「やっぱり会話とは“キャッチボール”であり、50:50のバランスの崩れるような会話は、結局(相手の)共感や理解を得られないのかもな」と感じたワタシである。

〜 こんなセリフもありました 〜

コロンボ「そいつはスト中ですよ」 ←故障に対するユーモア表現
    「女房曰くですがね」
    「あたしも才能さえあれば作家になりたいなぁ」
    「皆目、雲を掴むような顛末でしたから」
    「日頃、不勉強なものでして」
    「あの、もう1つだけ教えて貰えませんでしょうか?」
    「コートが薄くて、何だか寒くなって来ちまいました」
    「ウイスキーでもやりますか?」
    「大したもんですなぁ」
    「作家ってのは、そんなに儲かるもんですかね」
    「それが事でしてね」
    「もう1つだけ、お聞きしたいことがあるんですがね」
    「いやいや、そいつはいけませんよ」
    「困ったな・・お互いに厄介なことになるよ」
    「そいつはまずい所に来ちゃったな」
    「もう1つだけ」
    「“犬も歩けば”式に、色々とやってみるだけです」
    「まずいなそいつは・・女房ががっかりするだろうな」
    「所轄違いだけどね」
    「これと言った決め手に欠けるんです・・これじゃ逮捕出来ない」
    「あなたを待ってたんですよ」

ケン「“離婚もまた楽し”だ」

ラサンカ「人間って気まぐれでしょう?」

追記1:“メルビル夫人”シリーズの作品のタイトルの1つが(ズバリ)『殺人処方箋』だった(=^_^=)
追記2:タイトルこそ“刑事コロンボ”だが、劇中の役職は「警部」だったコロンボ(・ω・)
追記3:唯一「イイな!」と感じたのは「手前にジムの遺体、奥にそれを眺めるケンの立ち姿」のアングルだろうか。ジムがシルエットで表現されてるのが『シン・シティ(2005)』のイライジャ“ケヴィン”ウッド君みたいでスゴい(=^_^=)

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2009年9月19日 (土)

☆『ココ・アヴァン・シャネル』☆

18日(金曜)の夜。明朝にも某用事のため(それだけじゃないが)帰阪を開始しなくちゃならないが・・この1週間、ワタシなりに仕事を頑張った気がしたので(←自身の主観的&直感的&体感的な基準のみによる(=^_^=))「ご褒美的なサムシング」とし“ワーナー・マイカル・シネマズ高松”に寄り、前向きに鑑賞を考えてた1作『ココ・アヴァン・シャネル』を観て来た☆

創業100周年を記念して(?)のことか、奇しくもシャーリー・マクレーン主演の『ココ・シャネル』と、オドレイ・トトゥ主演の本作が真っ向から激突した感もある本年。

注)他にも『シャネル&ストラヴィンスキー』なる作品が本年制作されてるらしい。

(ワタシの中で)どっちに軍配が上がるのか・・はまだ良く分かんないが・・取り敢えず(ここ高松で)上映順の早かったこちらから鑑賞した次第☆

1893年。荷馬車でフランスの田舎町、オーバジーヌ孤児院に連れて来られたアドリエンヌ&ガブリエルの姉妹は、日曜毎に父親が面会に来るのを待ったが、彼の現れることはなかった・・

時は流れ、15年後・・田舎町ムーランのキャバレーで働く姉妹の姿があった。

♪誰か、トロカデロで犬のココを見なかった?

とコミカルな歌を懸命に(?)歌うガブリエル(オドレイ)。彼女は歌手/女優を目指そうと考える一方、針仕事に非凡な才能を発揮する娘だった。

姉妹で芸能界入りし、パリで成功を掴むつもりだったガブリエルは、男爵に見初められた姉が「彼と結婚する」と宣言したことで、1人で生きて行く必要に迫られる。

財産もコネも教養にも乏しいガブリエルは、パリ郊外・コンピエーニュへ旅立ち、自らを“ココ”なる愛称で呼ぶ、将校のエティエンヌ・バルザンの屋敷に身を寄せる。

愛想笑いをせず、男装し、バルザンを取り巻く上流階級の人々を心中で軽んじるココ(=ガブリエル)。
そんな彼女の前に、英国の青年実業家=アーサー・カペルが現れる。

やがて2人は相思相愛の仲となるが、カペルは“ある大きな秘密”を持つのだった・・

孤児院の少女時代から始まる物語ではあるも、、すぐにオドレイ・ココに成長(?)し、そのまま老け過ぎることもなくイッキに物語は突っ走った。
彼女の成長物語&恋愛物語にマトを絞った(脚本とした)ことで、予想以上にすっきりと展開を辿れる作品に仕上がっており、好感が持てた。

女性の置かれた時代が時代だった、ちぅのはあるが、悪く言えば「男を乗り換え、しがみついて生き抜いた女」って捉え方も出来るので(←ワタシは必ずしもそうは思ってないが)、(シャネル側の)関係者としては複雑な心境もあったのかも知れぬ?
しかし、その一方で「パリを逞しく生きる、ファッションリーダーとしてのココ」「上流階級の男たちにとっての“ミューズ(≒幸運の女神)”であり続けた」と言う解釈も出来、そう捉えれば、ココのミステリアスで(少し)エキセントリックで、セルフィッシュな人物像&生き方も、イキイキとは描かれてたように思える。

オドレイが演じることで「華奢で、強く、殆ど笑わぬ女性」って印象を強烈に(?)すり込まれてしまったワタシ(×_×) もうちょっとボディ面で女性的なトコロ(メリハリとか、、)が欲しかったようにも感じた・・私見ですが。。

ラストの方になると・・(上映時間的に)「まだこの辺りで・・この先、一体どう幕とするんやろ?」とドキドキして来たりも(・ω・)
結果的には「ちょうど良い所」でエンディングを迎える訳だが、も少しココを取り巻くキャラ群のその後を描いて貰えても有難かったかな?

第2次大戦前後とか、戦後のこともバッサリとアレされてたな(・ω・)
老いてからのココの姿(言動)は、もう1作の『ココ・シャネル』で拝見するとしようか。

〜 こんなことも 〜

・ココの提唱したスタイルは「コルセットなきドレス」「ヒールなき靴」「羽飾りなき帽子」など、既成概念からの「解放」・・そしてシンプルさ。
・フランスでは、ニワトリの鳴き声は「ココリコ!」と表現されるようだ。
・ダービーのシーンなど、上流階級の人々に取り入ろうとする気持ちがあったようだ。社交性は著しく乏しかったように見受けられたが。。
・意識的に「孤児だった少女時代」「キャバレーで働いてた境遇」をウソで隠そうとしてた。ま、仕方ないけど。
・全篇を通し“無難なモノローグ”しか語らなかったので、(ココの)本心は、その言動から観客それぞれが感じ取るしかない。
・“大きな正念場”に対峙した際のココの「決意の表情」「ひと呼吸置いてから歩き出す雰囲気」は見ものかも!
・「コルセットにハサミ」「ネクタイにハサミ」・・そんな“切ると言う行為”にはやはり「解放」の想いが込められてたか?
・愛人の道を辿りつつも、決して自由奔放さを失わなかった。
・女優として成功していたら、どうなっていたんだろう?
・「ドーヴィルへの2日間の旅」で初めて海を見たココ。何を感じていたんだろう?
・エミリエンヌ役を演じた女優さん・・“将来のキャメロン・ディアス”を見てるようだった(・ω・)
・ラストでは、恐らくシャネル側も厳しく監修した(?)と思しき“彼女の名を冠した帝国は、現在も揺るがない”なる時幕がババ〜ン! と表示されます(⌒〜⌒ι)

〜 こんなセリフもありました 〜

ココ「娼婦なら(私じゃなく)あっちよ」
  「退屈だと、老婆になるわ」
  「“ココ”って愛称、ニワトリみたい。最悪ね」
  「愛なんて“おとぎ話”よ」
  「私が憧れるのは、恋じゃなく“セックスそのもの”よ。男なしで出来ればイイのにね」
  「恋する女は、哀れよ」
  「恵まれた子は、バカになるのよ」
  「いつか私たち(姉妹)は、注目の的よ」
  「そんなドレス、(長い)裾で泥をかき上げてるだけよ」
  「帽子をかぶっても、額・鼻・口は見えるようにしないと」
  「くだらない本にも“真実の言葉”が見つかるものよ」
  「あんたなんか、財産がなければ、友達の1人もいないくせに!」
  「まるで銀食器ね」
  「締め付け過ぎて、カラダが折れそう」
  「見て。頭にメレンゲ乗せてるわよ」
  「嫌悪感には敏感なの」
  「“究極の色”って何だと思う? 瞳に映えるのは“黒”だけよ
  「彼(カペル)は少なくとも、私を恥じてないわ」
  「私って“疲れる女”でしょ?」
  「誰とも結婚はしないわ・・あなたとも。
   でも時々・・その決意を忘れるの」
  「妻より愛人の方がマシよ」
  「ここ(コンピエーニュ)じゃ、富と名声は手に入れられないわ。パリでなきゃ」
  「さぁ、車を出して! 一緒に行くわ。見送るのはもうウンザリ!」
  「1人で行くと、後悔するわよ」

※「その(馬の)乗り方はマズいです、マドモアゼル」
ココ「(馬を)蹴ればイイの?」

ココ「ナプキンが汚れてるわ」
執事「あなたのです」
ココ「汚れたのを私に使えと?」
執事「そうです」

※「チビでも、騎手になればイイ女に“乗れる”のさ」

バルザン「君ら(女性)にとって、男ってのは“疲れるけど必要な存在”だろ?」
    「片目で馬に乗るのは重要なテクニックだ・・泥が眼に入った時のためにな」

ココ「男も女も(肌を重ねれば)皮膚は同じよ」
※「どうすれば、その心境に?」
ココ「簡単だわ。部屋の灯りを消すだけ」

カペル「あだ名と言うものは、自分では変えられない・・そして一生付きまとう」
   「シンプルさを好むのは素晴らしい」
   「もう会えないと思ったよ」
   「ここでは、幸せかい?」
   「もし不幸でなければ、読書や旅で学ぶこともなかっただろう
   「僕は、あなたのためにここにいる」
   「君をさらいに戻るよ」
   「僕の故郷(イギリス)は・・雨と緑と灰色の地だよ」
   「彼(バルザン)との結婚は“総てを諦める”ことだ」
   「高慢なる者は・・苦しむ」

バルザン「日本を知っているか? 日本には“ゲイシャ”がいて、何でも奉仕するそうだ」
ココ「つまりは奴隷ね」

ココ「“愛を信じろ”と説教する気?」
バルザン「君は私のタイプじゃない」
ココ「それは何より」

バルザン「買ってやったドレスはどうした?」
ココ「あんなのカーテンよ。部屋に吊るしてあるわ」

バルザン「また男装を?」
ココ「見慣れてるでしょ?」

ココ「あなた、妬いてるの?」
バルザン「・・猛烈にね」

バルザン「なぜ髪を切った?」
ココ「邪魔だから」

エミリエンヌ「その運を逃さないで。あなたは幸運よ」
      「あなたには、才能があるわ」

ココ「恋をしたことある?」
エミリエンヌ「・・幸せにはなれなかったわ」

ココ「恋した時の気持ちは?」
エミリエンヌ「苦しくて、辛くて・・切ない気持ちよ」

ココ「もう少し、ここにいて」
カペル「何のために?」
ココ「・・・」

アドリエンヌ「彼(男爵)の両親は、命のある限り、私には会わないって」
ココ「なら、死ぬのを待てばいい」

※「愛と結婚は無関係だ・・それは“社会的慣習”でしかない」
 「玩具を与えただけのつもりが・・自由を手に入れたか」

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2009年6月12日 (金)

☆『荒野の七人(1960)』☆

11日(木曜)の夜、衛星第2で放送されてた『荒野の七人』を終盤(約40分程度)のみながら観た☆

実はここ3週間ほど、毎週木曜の夜(のみ)に6キロほどの距離をジョギングしており、この夜もそっちを優先したので「帰宅後の鑑賞」となってしまった次第。
因みに1週間に1夜だけのジョギングなので・・全然(当然?)「走ること」に身体が慣れて来ず、毎回ぶっ倒れそうになってるワタシ(×_×)
ま、本格的にランニングシューズも購入したことだし、出来るだけ(週1回にせよ)走るクセを維持して行きたいな、と。

巨匠=黒澤明監督による、日本を代表するサムライ映画『七人の侍(1954)』の世界を、大胆にも“西部開拓時代のメキシコ”に置き換えたガンアクション作。『七人の侍』に惚れ込んだ俳優ユル・ブリンナーが製作した、とのことで、大まかな物語の構成や、セリフ回しなどに類似点(オマージュ?)が見受けられる。

頭領=カルヴェラ(イーライ・ウォラック)率いる盗賊集団に悩まされ続けるメキシコのとある小さな村。村人たちは“7人のガンマン”を用心棒に雇い、カルヴェラ一味を追い払おうと考えるが・・

オリジナル版と違い、終盤の決戦(開始)まで7人のガンマンがしっかり(1人も欠けず)揃っている辺りに、ユル・ブリンナーなりの“こだわり”を見た気がした(=^_^=)
彼自身を用心棒軍団のリーダー格=クリス役に、ヴィン(スティーヴ・マックィーン)、ベルナルド(チャールズ“ヒゲなし”ブロンソン)、リー(ロバート・ボーン)・・らが盗賊集団を迎え撃つ!

結局、(出演が)良く分からず残念だったのは・・ジェームズ・コバーン演じるガンマンの言動を全くと言って良いほど確認出来なかったこと(×_×) 7人の中でも“最もクール&ニヒルなキャラ造型”だったらしいが・・(・ω・)

にしても・・マックィーン、ブロンソン、コバーン・・と妙に“お猿フェース系”が一同に会したもんだな、、(⌒〜⌒ι)

流石はあちゃらの西部劇だけあり、カラッカラに晴れ渡った砂漠の空の下、終盤の銃撃戦は展開していた。。オリジナル版において「特筆すべき」演出でもあった“驟雨(しゅうう)の中の決斗”みたいな状況の醸し出す“悲壮感”なんぞはカケラもなかったのである・・

〜 こんなセリフもありましたか 〜

ヴィン「“全裸でサボテンに飛びついた男”に、その理由(わけ)を訊いたことがある」
盗賊「そいつは何と?」
ヴィン「“その時はイイと思った”とさ」

ヴィン「初めて用心棒の仕事を引き受けた時・・“情けは棄てろ”と言われた」
   「ヤワなのは、あんただけじゃないさ」

ベルナルド「銃なんか扱えるより、(家族を養うと言う)責任を背負う方がよほど勇敢だ」

※「眠るなら白いシーツに限る」

クリス「行くなら行けよ、もう借りはないんだろ?」
リー「あるさ、自分にな」

カルヴェラ「戻るとはな・・お前のような男が、こんな村に・・何故だ?」

長老「あんたらの戦いは終わったが、わしら農民は毎日が戦いだ。
   これが豊作なら礼もハズめたが・・」
  「あんたらは風だ。ただ大地を吹き抜け、慌ただしく去って行く」

クリス「長老は正しい。勝ったのは農民だ・・俺たちはいつも負けだ」

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2009年6月11日 (木)

☆『恋人までの距離(1995)』☆

9日(火曜)の夜、衛星第2で放送された『恋人までの距離(ディスタンス)』を中盤より鑑賞した。
ってか、放送されてると知ってたら、最初からきっちり観たのにん・・(×_×)

すでに以前にも、本ブログで(※2008年11月14日(金曜)の記事参照)、大体の所を“思い入れもたっぷりに”書きまくった感のある本作だが・・やはりワタシの“恋愛映画ベスト69(←中途半端な数やね!)”の上位に、これまでも&これからも食い込み続けるであろう作品であり・・やっぱり最後まで観てしまうのだった。

で、またもや(=^_^=)途中からセリフをメモし始めたので、参考までに・・(・ω・)

ジェシー「面白いものにはカネがかかるね」
    「僕は心から人を愛せる・・でもそれより“何か”を遺(のこ)して死にたい」
    「総てには終わりがある。だから(今と言う)時や時間が大事なんだ」
    「人間関係がイヤになる。いつもそこから逃げ出したくなるんだ」
    「“偽インテリ”になり、つまらない話を繰り返しそうだ」

セリーヌ「さっきのがケンカなら、ケンカってかなり楽しいものね」
    「“詩で人生が輝く”って素敵ね」
    「男を中心に生きるのはイヤよ。だけど、愛し愛されたいわ」
    「神がいるのは、人の心の中じゃない。人と人の間の“わずかな隙間”に居るのよ」
    「この時間が空想の産物みたい。幻想のように思えるの」

ウィーンのホームレス詩人の作品“ミルクセーキ”より

僕は迷える天使 それは幻想のパレード
僕の熱い胸の内を知って欲しい
僕は何処から来て 何処へ向かうのか
僕は君を導き 君は僕を導く
まだ僕が分からないのか?

ジェシー「女は平気で男を滅ぼしちまうのさ」
セリーヌ「女は男を滅ぼしたりしないわ・・男が女を滅ぼすのよ」

ジェシー「僕らは“結ばれる”のが自然なんだ」
セリーヌ「それってバカげた男のファンタジーね」

オーデンの詩より

刻(とき)に惑わされるな 刻は征服出来ない
刻は人の生命を超える
明日か 今日にも

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2009年4月29日 (水)

☆『グラン・トリノ』☆

28日(火曜)の夜。仕事帰りに、またまた北方の“ワーナー・マイカル・シネマズ高松”へと繰り出したワタシ。
職場を出たのが18時少し過ぎで、狙っていた1本『グラン・トリノ』の開始が18時20分だった(×_×)

この前“通常ペース”で向かったトコロ、マイカルまで20分かかったので、今回も「正直、かなり厳しいよなぁ・・」と言う不安はあったが・・頑張って急ぐと5分前にシアターのロビーへの到着が叶った!
必死になれば、意外と道は開けるものである(=^_^=)

※もし間に合わなかったら、18時35分から開始の『バーン・アフター・リーディング』を観るつもりだった(・ω・)>

今回はレイトショー扱いではなかったが、やはり“全席自由席”なシネコンであることがハッキリした。実に珍しく、面白い!

アメリカ中西部、冬期には雪の降り積もる山間部の街(携帯が“圏外”になったりする)。
そこに“周囲の(すること)総てに対する不満”と共存する老人=ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)が暮らしていた。
ポーランドからの移住、朝鮮戦争における“伝説の英雄”的活躍、そして長年連れ添った妻ドロシーとの死別、溝の埋まらない身内(息子夫婦、孫娘)とのぎこちない関係・・
愛妻を失って以来“孫娘のへそピアス”、果ては“近隣住人の騒がしい振る舞い”に対しても、わき上がる怒りの感情を抑え切れず「ううっ」と狂犬のように静かに唸るウォルト。

そんな彼にも新しい出会いが。
とある事件をきっかけに知り合った、隣家のモン族(ラオス・タイ・中国地域にルーツを持つ民族で、ベトナム戦争以後に渡米して来たアジア系の人々)の姉弟スー&タオである。

明るく利発的で物怖じしないスー、ややトロいが素直な心を持つタオに対し、次第に心に厚く張った氷を溶かし始めるウォルトであるが、そこに「タオを仲間に引き込もうとする」モン族のチンピラ集団が、ことあるごとに姉弟にチョッカイを出す。

その後に起こった某事件を機に深く考察し「奴らが永遠に消えない限り、スー&タオに安らぎはない」と結論を下したウォルトは、チンピラ集団に対し、敢然と立ち向かうことを決意する・・

うーん・・このゆったりさはどうだ?! と観てびっくり。ストーリー自体はもっとあちこちを削れば80分程度でまとまったように思うし、他人にも展開&オチを如何にも手短に伝えられる、そんな作品なのである。この分かり易さで連想したのは『チョコレート(2001)』と言う作品だろうかな。。

“アクション俳優”としての彼を知る「クリントファン」からすれば、この物語の組立ては実にまどろっこしく、例えば『許されざる者(1992)』のように、最後の最後に怒りが大爆発するんやろな! と考えてもしまうのだが・・そう一筋縄にストーリーが流れて行かない、着地しない辺りは『ミリオンダラー・ベイビー(2004)』のような“確信的なしたたかさ”を感じ、そう言った部分にこそ唸らされた(・ω・)

「俳優クリント」の集大成とも言える本作は、過去のクリントを知る人々ほど楽しむことも出来、感情移入も出来、そしてその言動と迎える結末に“衝撃”を受けるのではないかと思う。
幸運だったのは、ワタシ自身が相応の年齢となったことで、そう言った「ゆったりした(作品世界の)空気」「なかなか煮え切らないウォルトの決断」「ウォルトの取った行動」にも“共感”ぽい気持ちが芽生えたことだろうか。
“問題発言(人種差別的発言)”も意外と多いんだが、オトナが見れば「俳優とし、劇中で言ってることに過ぎず、クリント自身の主張ではない」ことは容易に掴める。しかしここも「クリント作品に触れて来なかった観客」にすればかなりの不快感を覚える向きもあることだろう(×_×)

物語は中盤⇒後半に向かって“復讐モノ”のテイストをにわかに帯び始めるんだが、そこに至る直前、とある人物とウォルトが語り合う場面の醸し出す“緊張感”がなかなかだった。ここはかなり重要な部分なので、絶対に見逃してはならない!

このシーンでその人物が「もし私だったら・・」と“かなり意外(かつ過激)な私見”をウォルトに放つ訳だが・・その発言こそが、ウォルトの“最後の決断”に“軌道修正をさせた”のか“背中を押した”のか・・そこを想像するのが深く、面白いトコロ。

ウォルト自身に“時間が残されていない”ことは数限りない“フリ”で描かれるし、歳を経たウォルトが(そのまま穏やかに生き続けるにせよ)どのような最後を迎えたろうかも“ネタ”とし「分かり易く」示してくれる訳で、考えたらあれこそがウォルトの“最高の幕引き”だったのではないか、とさえ感じてしまったワタシだ。

大して俳優陣が光っていた訳でも、大して普遍的なテーマが織り込まれていた訳でもなかったんだが、クリントファンにとっては“外しては彼を語れない”そんな1作であると断言したい!

〜 こんなことも 〜

♦本作の字幕は戸田奈津子さんが担当! 全然“意訳”が弾けてないが、まぁ良い作品を担当されたと評したい。
♦タイトルの“グラン・トリノ”は1972年式のフォード製ヴィンテージカー。「グラン・トリノ・スポーツ(ファストバック)」が正式名称らしい。
♦27歳の神父さんは“童貞”と言われ、結局否定してなかった!(⌒〜⌒ι)
♦「長年の主治医が3年も前に引退してた」・・人生の後半では、そんな事実を知ってシュンとなる時もあろう、、
♦劇中で唯一の“ウォルトの涙”にこちらも「ウウッ」となってしまった(⌒〜⌒ι)
♦チンピラのフォン(スパイダー)一味が乗ってたのはホンダ・シビック(フェリオ)。ちょい“スポコン”入ってますた、、
♦ラストで“鉄板ネタ”を期待したあなた。「クリントファン指数」高過ぎです(爆笑)
♦スーの帰宅シーンには、観てて全身がガタガタ震えてしまった。。
♦「とある人物の見張り」「早々に地下室から解放される人物」をかいくぐってのあの運命・・何だかその皮肉さ(間に合わなさ)に『ロミオ+ジュリエット(1996)』の終盤を連想してしまった。
♦“グラン・トリノ”を乗り回すタオの姿・・をエンディング以外にも見せて欲しかったッス(・ω・)

〜 こんなセリフもありました 〜

ウォルト「懺悔するが・・正直、教会は苦手でね」
    「国産車(アメ車)を買うとバチが当たるってのか?」
    「“イエロー”が隣に越して来るとはな」
    「“生と死”の何たるかを知ってるのか? 俺は3年間、朝鮮でそれ(死)を見て暮らしたんだぞ」
    「いつ見てもいいクルマだ」
    「多年性植物? ゴミを玄関に持ち込むな」
    「朝鮮じゃ、死体を袋に詰めて“弾避け”にしたもんだ」
    「芝生に入るな!」
    「1つ言っておく。今度庭に入ったら、命はないからな」
    「大事なのは“とっさの判断”だ」
    「怒らせることの大間違いな相手もいる。例えば、この俺だ」
    「東洋人は利口なハズだろ?」
    「赤の他人でも、独りで飲むよりはマシか・・」
    「どうにもならん身内より、ここの連中が身近に思えて来るとは・・情けない」
    「確かに俺は嫌われ者だが・・“地球上で一番の美人”を手に入れた」
    「“イエロー”は数に強いんだろ?」
    「噛み付く歯も、タマ(=度胸)もない臆病者のくせに」
    「汚い言葉を使うな(watch your language)」
    「仕事ならあるさ、何処にだってな」
    「いい女とデートして男を上げろ」
    「初めて入った店でため口を叩くな」
    「“その場にいない奴”の悪口にしておけ」
    「哲学を語る必要はない」
    「参ったな(fuck me)」
    「相手の眼をしっかり見て話せ。そして力強く握手しろ」
    “やはりこうなった・・俺は余計なことを?”
    「現状を良く考えろ。冷静になれ」
    「分かってるよ、何も言うな・・1度ぐらい、好きにさせろ」
    「“人を殺した気持ち”なんか知らなくていい」
    「この世で最悪の気分さ。今も毎日思い出す・・最悪の気分だ。お前に分かるか?」
    「意気込み過ぎるとやられるぞ」
    「やれよ(go ahead)」 ←おお、名台詞!

神父「私が嫌いですか?」
ウォルト「想像してみろ」

神父「なるほど、あなたは“生”よりも“死”に詳しいようだ」
ウォルト「そうかも知れん」

チンピラ「お前、幾つだ?」
スー「そう言うあんたの精神年齢は?」

床屋「また来いよ、バカたれ」
ウォルト「それ迄にくたばれ。お前が死ねば、もっとマシな床屋がここに来る」

ウォルト「相手に気を付けな」
チンピラ「お前もな」
ウォルト「言われなくても気を付けるさ」

スー「男の子は順応性が悪いわ。だから女は大学へ、男は刑務所へ」

息子の妻「(プレゼントは)電話器よ」
ウォルト「確かに、一目見ただけで分かる」

スー「うちに来れば? ご馳走があるわよ」
ウォルト「言っとくが、俺の犬は喰わせないぞ」

タオ「この道具を何処で?」
ウォルト「自分で買ったさ・・泥棒には分からんだろうがな。揃えるのに50年かかった」

タオ「タバコは身体に悪い」
ウォルト「チンピラとつるむのも身体に悪い」

ティム「プレゼントなら“グラン・トリノ”のキーをくれよ」
ウォルト「皆が狙ってるようだな」
ティム「そう言うクルマだからな」
ウォルト「かもな」

ウォルト「犬肉の焼き具合はどうだ?」
スー「やめてよ。私たちが食べるのは猫肉よ」 ←おい!

※※「俺だってクソ野郎は許せない」
  「私がタオなら、復讐します」

※※「全く酷い」
ウォルト「それが世の中さ」

神父「あなたの心に安らぎを」
ウォルト「俺の心なら、安らいでるさ」

“孤独なリズムを夜通し刻むクルマ・・それがグラン・トリノ” ←エンディングテーマより

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2009年2月15日 (日)

☆『グッバイ、レーニン!(2003)』☆

先月21日(水曜)の夜、に実は(=^_^=)鑑賞してたのが“東西ドイツ統一”当時の、ベルリンに住む一家(母子)を軸に描いたドラマ『グッバイ、レーニン!』である。
製作陣はある程度の“エンタテインメント性”をちりばめた上で製作したと思われるんだが、結構お硬い・・と言うか史実に基づいた(ある意味骨太な)構成であったせいもあり、2回(2夜)に分けての鑑賞を強いられた。。
(そもそもは昨年6月15日(日曜)夜の放送(BS2)を録画したまま延々放置してしまい、、今般(1月17日(土曜))に再放送された・・のもまた観送ってしまったのを機に「そろそろ観とくで!」と重い腰を上げて鑑賞した次第、、)

主人公=アレクサンダー・ケルナーは自身の暮らす東ドイツ・ベルリンの街角で反体制デモに参加(89年10月7日:DDR(=ドイツ民主共和国)の建国40周年記念日の夜)するも、衝突した警官隊に間もなく逮捕されてしまう。
そんな彼を眼にしたのが、たまたま現場を通りがかった、彼の最愛の母=クリスティアーネだった。
彼女は目撃時のショックで心筋梗塞を起こし倒れてしまう・・

意識不明の続いた母だが、8ヵ月ぶりに“奇跡的”に目覚める。しかし、部分的な記憶を喪失すると共に「再度の精神的な刺激が命取りになる」と主治医に診断される身体となってしまう。

実はその間に、ベルリンの壁は崩壊し(同年11月9日〜)、東西ドイツは本格的な統一に向け動き出していたのだ。
(正式な統一は翌90年10月3日とされる)

崩れ去った壁(=国境)を越え、東の国民は西へ去り、西の国民は東へと傾れ込んで来る。
ベルリンに押し寄せる、急激な資本主義の波! ビルの壁面には「コカ・コーラの巨大な広告幕」が吊るされ、街頭は近代的な西側のクルマや派手なファッションで彩られる。

アレックス(=アレクサンダー)は母を“資本主義の波”にさらさぬよう、姉アリアーネや近隣住民らに協力を仰ぎ、必死で“社会主義体制の継続”を装うが・・

切羽詰まった緊迫感こそに、ユーモアの要素が実は多分に内包されている、と言うことを全篇を通じ教えてくれる作品である。アレックスの頑張りが、ある意味“家族の結束を辛うじて保っていた”と考えれば、彼の涙ぐましい努力も、決して徒労ではなかった、と認めてあげたい。

「嘘を貫き通す」と言う主人公の凄絶な(=^_^=)行為は『ライフ・イズ・ビューティフル(1997)』も連想させてくれたか(・ω・) あちらの作品では「※※がやって来た」って演出を“転”(と同時に“結”でもあったけど)に据えていたが、本作では「ヘリに吊り下げられたレーニン像(の巨大な上半身)が何処かへ撤去される情景」が“社会主義の崩壊”を問答無用&単純明快に描写していた(やたら低空飛行だし、真っ昼間に(容赦なく)撤去ってのが逆に“白昼夢”にも思えたり、、)。

アレックス以上に好感を持ったのが、彼の同僚で親友でもあるデニス・ドマシュケ君。クリスティアーネを効率的に欺く(?)ため、過去のニュースビデオを繋げ“架空の報道特番”をでっち上げたり、自らリポーターとし“偽りの現地取材”を敢行したり。ここまでやってくれる親友って、人生でなかなか出会えまい、と思う(・ω・)

・・と、表面的には“孝行息子の物語”ぽく描かれてるんだが、一方で「何処となく“母親を謀(たばか)る言動”を必ずしも厭わず、いやむしろ、楽しんでる時もあったやろ!」と直感的に突っ込める箇所もあるにはあったか(=^_^=)
まぁ、本人が楽しんでやってる部分があったからこそ、全体的な不自然さもカバー出来たんやろな、と好意的に解釈したい。

終盤では、かつての“国民的英雄”が意外な場所でクスぶった境遇に身をやつしているのが明らかになったりする(×_×) が、そんな彼にも「たった1度の、たった1人に対する、一世一代の大芝居」が控えていたのだった!

崩壊が再生と親密な関係にあること。
結果だけじゃなく、家族には経過も大事なんだと言うこと。
・・そんなことを何気に再認識させてくれる、佳作である。

〜 こんなセリフもありました 〜

アレックス“1978年8月26日、ソユーズ31号でジークムント・イェーン飛行士が宇宙に到達したその日、
      我が家では不幸が始まった”
     “初の自由選挙が実現し、姉は貨幣の流通を初めて実感した”
     “恋人のララは、上機嫌だと髪を下ろして来る”
     “変化の風が国中を吹き抜けた”
     “夏のベルリンは世界一きれいだ”
     “世界の中心にいるような心地だった・・未来は不確かだが輝いていた”
     “1990年6月、国境はその意味を失った”
     “6月末、東ドイツの店は何処も空っぽに”
     “真実なんて、案外、不確かなものだ”
     “姉は戦線を離脱、コーラの旗を掲げた”
     “(西独マルクへの交換期限を過ぎ)今や紙切れとなった東の紙幣は西風に舞った”
     “この町の何処かにいる、一日中チーズバーガを詰め込む太った父の姿は、別の世界の住人だった”
     “生活のテンポは上がる一方、まるで粒子加速器に入った原子の気分だ”
     “僕のシナリオは独り歩きを始め、母のために作ったDDRはいつしか僕自身の理想像へと”
     “夏も終わり、僕は幻想を消すことにした・・現実とは違い、祖国には威厳ある最期を”
     “母が去ったあの国は、母が信じた国だった・・僕らが延命させたあの国は、現実とは違う姿の国だった”
     “あの国を思い出す度に、僕は母を想うだろう”

母「西へ逃げてどうなると言うの?」
 「あの音は? 同志が西側のチャンネルを観てるの?」
 「受け入れてあげて、西からの難民を」

姉「しまいには街の中、全部を変えなきゃね」

店員「西のお金が手に入ったのに、わざわざ東の製品が欲しいの?」

アレックス「先日の先生は?」
医師「あの先生は西へ」
アレックス「・・先生はいつ西へ?」

TVリポーター「西ベルリンにコーラ会社が設立され、国営飲料企業との提携協議に合意しました。
        専門家によると、コーラの起源は我が国にあるとのこと。1950年に試験所で開発されたのです」
母「コーラが社会主義? 戦前からあるわ」

運転手「君が(僕に対し)何を思ってるのか分かるよ、でも別人だ」
   「“上”は奇麗だった、ただし遠かった」

アレックス「出来たか?」
デニス「俺の最高傑作だぞ! 大勢に見せたいよ」
アレックス「お前には感謝・・」
デニス「いいって、湿っぽいのは苦手なんだ」

新国家元首「親愛なるドイツ民主共和国の皆さん。私たちの蒼い地球を、宇宙から眺めると言う奇跡を経験すると、
      ものの見方が変わります。宇宙に比べれば、人間の命など小さなものです。
      成し遂げたことも、達成した目標も小さなことです。
      この祖国も宇宙から見れば小国に過ぎません。でもその小国に人が殺到しました。
      敵であった人々が共生を希望しています。この国は不完全です。でも私たちの信念は感動を呼びました。
      たまに目標を見失っても、修正しました。
      壁で遮断するのではなく、人々と共に生きるのが真の社会主義なのです。
      より良い世界を作るために、私は国境の解放を決意しました。
      ここでは出世や消費が第一ではなく、競争が絶対でもないのです」

追記1:終盤のどでかい報道特番。母の視線がTV画面にではなく、その画面に釘付けになってる息子の姿に、静かに優しく注がれているトコに注目頂きたい。
追記2:劇中に挿入される某ピアノ曲は・・どう聴いても『アメリ(2001)』のサントラ曲だった(×_×) と思いきや、同じ作曲家さん(ヤン・ティルセン)だったんですね。
追記3:ご近所のお爺さんで「ガンスケさん」ってしとがいたが、日本人ではなかったようだ(=^_^=)

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2009年1月22日 (木)

☆『五線譜のラヴレター/DE-LOVELY(2004)』☆

14日(水曜)の夜。
衛星第2で放送された『五線譜のラヴレター/DE-LOVELY』を観た。
この週は“ミュージシャン自伝映画・強化週間”って感じで・・連日、そうそうたるラインナップが流されたのだ。
んなもんで、こっちも必死になってテレビにかじり付いてしまった(=^_^=)

ケヴィン・クラインを主演に、音楽家コール・ポーターの生涯を綴ったミュージカルテイストの佳作。

老境に差し掛かったコール(クライン)はピアノを前に、これまでの目まぐるしい人生をぼんやりと振り返っている。
そこにやって来たのは、ゲイブ(ジョナサン・プライス)と言う人間の姿をした天使(?)。
「もうお迎えか?」のコールの問いに、ゲイブは「まだ先さ」と答えた。

「それより、君の人生を弾き語ってくれないか?」と今度はゲイブが乞う。「いいとも」と答えたコールの眼の前に、青年時代の自身の姿が映し出される。

・・「あれが私か? 若いな、歌はまずいが・・」

美しき、彼の愛するリンダ・リー(アシュレイ・ジャッド)との出会い、そして別離。
人生こそはミュージカル! コールの弾く軽快なピアノの旋律に乗り、ドラマが今、始まる・・

・・って、何かめちゃめちゃ抽象的な粗筋やね(=^_^=) ま、いいか。

私的にはケヴィン・クラインと言えばまず連想しちゃう主演作が『イン&アウト(1997)』であり、どうにも“ゲイっぽいしと”って印象が深くワタシの中に刻まれてしまってる(×_×) 実際には「そうは見えない荒々しい男優」こそが意外とゲイだったりもするんだが・・ま、いわゆる“ゲイ達者”ってことで(←そう言う小ネタはもういいってば(=^_^=))

本作では、コールとリンダの「夫婦と言うより、異性の親友」って印象も強い、その関わり方が知的で、過度に束縛し合ってなくて、好感を覚えた。
リンダは既に“パリ社交界の花”って立場を確立、婚歴もあれば複数の恋人だっているのだ。片やコールは・・(公演中の)ロシアの青年バレエダンサー=ボリスの楽屋に足繁く通う“隠れゲイ気質”だったりする。

リンダが彼にとっての“ディーヴァ(創造の女神)”であったことは間違いなく、彼女が“些細な諍い”でパリに去ってからは見事に“スランプ&深酒”の悪循環にめそめそとハマってしまうコール。

気分転換に乗馬していた彼は、落馬事故で両足に致命的なダメージを負ってしまう。「ピアノのペダルが踏めなくなる」と言う事態に陥った彼の前にリンダは駆け付けるが、その眼の前では表情1つ変えず「しっかりしなさいな」的な態度を見せるのだが、彼の前を辞し、別室に入った途端に顔をクシャクシャにして静かに嗚咽するトコは、流石に胸に迫るモノがあった・・

なかなか芽が出ず、ようやくヒットメーカーになった途端に重傷を負う・・と言うもの凄い波乱の人生を送った、この作曲家であるが・・こんな素晴らしい女性と出会えたことには“地位”や“名声”なんかの及ばぬ、もっと高い次元の幸福をきっちりと掴まはったんやなぁ・・と羨ましく感じた。

こんな“運命の女性”と出会え、自身に秘められた才能(←注:秘められてる場合に限る)を刺激⇒開花させて貰えるなら、出会う前に死んでもいい! と断言したくもなるってもんだ。・・いや、出会う前に死んだら、意味ないじゃん! あんたの今の言い草、根本的におかしくね?(=^_^=)

~ こんなセリフもありました ~

コール「恋は突然にやって来るものさ」
   「葬儀の曲だけは好きになれんな」
   「私はご都合主義じゃない」
   「私は目立ちたがり屋なんだ、恐がりでもあるが」
   「私は貪欲でね」
   「結婚してからも、彼女への恋の歌を繰り返し書いたものさ」
   「小鳥も蜜蜂も恋をするさ」
   「僕らの芝居は悲劇? それとも喜劇?」
   「歌えないのは、楽しんでいないからだ」 ←文句たれる歌手に
   「彼女に出逢って、僕は生き返った。そして捧げると誓った、僕自身をね」
   「過去を持ち出すな、終わったことを」
   「『道化師になろう』はおふざけで作った曲だったが、本気で作った曲の100倍は稼いだな」
   「育ちのいい仮面を着けた傲慢だよ、慎みなんてものは」
   「スランプでね・・いい曲を作るには酒が要る」
   「時間をかけるだけじゃ無理さ、いい曲を作るには」
   「手術の度に“曲の血”が奪われる気分だ」
   「曲を書くウィットも情熱ももう残されちゃいないさ」
   「最後だけは“毅然とした選択”をさせてくれ」
   「孤独で惨めでメランコリー・・なんて人生のフィナーレだ」

リンダ「聴衆を信じて」
   「私以上に“男好き”なのね」
   「あなたには変化が必要よ」
   「感じるままに(夜を)演じましょう」
   「大丈夫、私の運命は神の手に、公演の運命はあなたの手に・・逆なら良いのだけれど」 ←病床において
   「私の命はそう長くはないわ、少し早めにお別れをさせて」

コール「(ハリウッドは)花(=女優)の良く育つ場所さ」
リンダ「熟れ過ぎよ」

リンダ「彼から生き甲斐の音楽を奪えば、彼はもう生きられません」
医師「高望みのし過ぎですぞ」
リンダ「そんな夫婦なんです、私たちは」 ←このひと言がイイ!

サラ「“無愛想な演技”がヘタね」
コール「昔は巧かったんだがね」

友人「人生はカーニバルだが、今は必死の綱渡りだよ」

メイヤー「曲に小細工などは要らん」
    「ここハリウッドじゃ、いいものは全て映画絡みさ」 ←MGMの創始者やね。

追記:劇中で、リンダの流産が演出されていた。こればかりはポーター夫妻にとっての大きな悲劇の1つだったのかも知れないが・・ワタシなりに「それを経てこそ、2人の絆はより深まったのかも知れないな」とポジティヴに考えた次第だ。

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2008年12月 8日 (月)

☆『ゴースト・シップ/呪われた豪華客船(2002)』☆

7日(日曜)の夜。「日曜洋画劇場」で“テレビ朝日開局50周年記念”とし地上波初放送された『ゴースト・シップ/呪われた豪華客船』を観た(公開時タイトルは『ゴースト・シップ』のみ)。

劇場公開当時「怖いもの観たさ」で鑑賞し、そのひっどい出来映えに閉口してしまった覚えがあったが・・再度“穏やかな眼と感性で観直せば、何か別な好評価が導き出せるかも・・”と考えた次第(・ω・)

1962年5月、イタリアの誇る“海に浮かぶ宮殿”とも呼ばれた豪華客船「アントニア・グラーザ号」がラブラドル半島(カナダ北東部)沖で消息を絶った。
船内では赤いドレスの歌姫=フランチェスカが妖艶な魅力を振りまき、デッキでは紳士淑女が酒とダンスに酔いしれていた・・そんな中、何者かによる“大量殺戮”が行われたのである・・

そして40年後。民間タグボート“アークティック・ウォリアー(北極の戦士)号”を共同経営するマーフィー船長(ガブリエル・バーン)、(女性クルーの)エップスら総勢6名のクルーは、パイロットである青年ジャック・フェリマンの持ち込んだ情報

・・ ベーリング海上(アラスカとロシアに囲まれた海域)で巨大な幽霊船の漂う姿を目にした ・・

を信じ「未発見の客船内に眠るであろう“莫大なお宝”を頂く計画」に乗ることに決める。
フェリマンと交わした契約は「儲けの総額の10%を彼に」「彼自身も同行する」と言うものだった。

「海がくれたチャンスを逃すな」をモットーとする(?)一行は、早速現地へとタグボートを走らせるが、その船には大変な災厄が渦巻いていたのだった・・

ジョエル・シルバー&ロバート・ゼメキスの共同製作ってことで、ある意味“良作やろ”と思ってたら、結局はコレが大したポンコツだった(今回、観直すも評価変わらず、、)。

・脚本の組立が(奇しくも)『バイオハザード(2002)』そっくり
・主人公の言動や運命などは『エイリアン(1979)』を参考にしたっぽい
・船内で遭遇する怪現象の数々はまんま『シャイニング(1980)』『MEMORIES/彼女の想いで(1995)』の世界
・表面的(?)な豪華演出はやはり『タイタニック(1997)』を意識してそう

他にも(船内のお宝以上に)ザクザクと映像ネタ&演出ネタが発掘されそうだ(⌒〜⌒ι)

「お茶の間対応」ってことで、ある程度“残酷描写”はカットされてたんだが、それでもなお「冒頭のいや〜なワイヤー演出」「ミイラの縊死体」「缶詰の中の虫」など、まだまだ不快さの拭い切れてない部分が残されてたような。。

私的には「幽霊船の探索」と言うドキドキする舞台をせっかく準備してるんだから、浮ついた過剰な演出なぞは極力控え、静かに格調高く(?)進んで行くタイプの作品にして欲しかった。
フランチェスカなるキャラに関しては“かなりエエ雰囲気”を醸し出してたが故、あんなアトラクション的な扱われ方しかされなかったのは実に勿体ない、と。

6名のクルーが1人ずつ殺られてゆく流れなんだが、それぞれにキャラ造型が薄っぺらく、死んでから名前のハッキリ掴めた奴などもいたのには苦笑させられた。
終盤では“サタン系”の展開にも足が突っ込まれるんだが、もう何が何だかって感じ・・

製作を手がけた『さまよう魂たち(1996)』と同様に「ゼメキスとして、どうよ?」と私的には“しょっぱ感”の止まらない1作である。

〜 こんなセリフもありました 〜

マーフィー「不謹慎な行動はよせ」

ケイティ「霊になると・・“家族が死んだ”ってことが分かるの」

※※※※「海の底に横たわってるのは退屈なもんだぜ・・そこには光も希望もねぇ」

※※※※※「愛のため、命を捧げるか?」

追記1:「CM戻し(←CM後に巻き戻され、もう1度CM前のシーンが描かれる)」がやたらと多かったように。本編91分ですか、、道理で(・ω・)
追記2:悲劇の先鞭をつける「第1の犠牲者」。出演時間もいっちゃん短い訳で、最も哀れなんだが・・考えようによっては「何が何だか分かんなかった」分、ラクな死だったかも知んない(×_×)
追記3:やっぱり登場! アクション映画の定番アイテム「C4爆薬」だ〜!

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