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2010年6月15日 (火)

☆『マザー・テレサ(2005)』☆

14日(月曜)の夜。

世間では“サッカーワールドカップ(W杯)”初戦(=対カメルーン戦)に沸いてることだろうが・・

ワタシはその点「非国民気味」と言おうか(⌒〜⌒ι)・・それほどホットな気分になるでもなく「まぁ、かいつまんで観れたらエエか」ぐらいに捉えている。
それ以上に気になってるのは、明日の夕刻より予約開始となる「新型iPhone(4.0)」のことだろうか(・ω・)

これも先着順で、かつ(申し込みが)打ち切られたりしたら悲しいなぁ・・まぁ、どう頑張っても自宅最寄りのショップに駆け付けるとなれば、宵の口の到着となっちゃう訳だけどサ。。

帰宅後、衛星第2で放送された『マザー・テレサ』を観た。「既に5年も前の作品なんやなぁ」としみじみ。劇場公開当時、機があえば観に行きたかった1作でもあった。

『ロミオとジュリエット(1968)』で・・その気丈そうで、かつ美し過ぎる容貌に「ほぇぇ!」と圧倒されたオリヴィア・ハッセーさんも、、そこそこのご年齢に(・ω・)
この作品を観た時ってば、、オリヴィアさんともしラヴラヴになれるんなら「生涯、白タイツ着用」を厳命されても、喜んで従って良いとさえ思ってしまったモノであったなぁ・・(=^_^=)>

1946年、インド・カルカッタ。
国内では「ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立」が高まり、ここカルカッタでもその混乱は凄まじいモノとなっていた。

ロレット修道会を代表するシスター=マザー・テレサ(オリヴィア)は、修道院から外に活動を広げ、通りに倒れている人を介抱したり、病の幼子を医者に診せたり、と地道な活動を続けるも・・それは「ヒンズー教徒を助けている」と捉えられ、イスラム教徒の反感を買うのだった。

修道院はテレサに“院外活動の禁止”を命じるが、彼女は従わなかった。
地道な努力を続け、自らの強固な信念を貫き、やがては「修道院の許し」を勝ち得るテレサ。

白(清らかさの象徴)と青(聖母マリアの色)からなる新しい尼僧服に着替え、カルカッタの市中(←スラム)に独自の救済施設を設ける彼女。

次第にカルカッタの市民を中心に「理解の輪」がその大きさを広げて行く一方で「ただ人助けがしたい」と言うマザー・テレサの活動を阻もうとする、様々な障害が立ち塞がるのだった・・

(公開)当時のニュースで「25年ぶりの主演作!」とか騒がれてて・・「そう言えば、女優さんとしては不遇な感じの歩みだったのかな・・?」と心配もしてしまったが、、ある意味でオリヴィアさんご自身の「これまで余り取り沙汰されて来なかった女優人生」に裏打ちされたような、役柄の中に自然に注ぎ込まれてる「演技じゃないピュアさ」みたいなモノがちょうど良い具合に現れてて良かった。

しかし、ストーリーの流れとしては「次々に現れる妨害」って感じで、すんなりマザー・テレサの慈善活動をただ眺めたかった&知りたかったワタシとしては「また邪魔が入るし〜」とちょっとムカついたのもあったかも(=^_^=) ま、物語性とか逆境的展開も、そりゃ大事なンですけれども・・

ホンマに想像以上の「わずらわされっぱなしな人生」だったのですね・・

そんなテレサを周囲で補佐する、魅力ある人々が幾人も登場するが、彼らのキャラ造型も、ちょっと表面的&客観的に過ぎる印象で「勿体ない」と感じた。
特に終盤で「ポコッ」と某重要キャラが“退場”しちゃうんだが、その辺りがどう言う事情だったのか、良く分かんなかった(×_×)

中盤、ローマはバチカンにやって来たテレサが、通りを眺め下ろしつつ「カルカッタでは、人々が食べ物に飢えているが、都会の飢えはもっと深刻・・何故なら人々は“愛”に飢えているから」とぼそりと呟くセリフにグッと来るモノがあった。

確かに地元(?)カルカッタの街(スラム)って「貧困なれど活気あり!」って感があったのだ。少なくとも「人々の考えてることの分かり易い」印象があった。

今さら文明を棄て、高度成長期前のニッポンに戻れよう訳もないが・・何処か「もっと世の中の分かり易かった、あの頃が懐かしいな」ともフト考えたワタシである(・ω・) ←知ってるんかい!

〜 こんなトコも 〜

♦テレサなりの愛情表現(?)で「相手の顔面を、左右から両の掌で挟み、顔を近付ける」ってのがあった。アレがやって貰いたくて・・ただそれだけで「彼女の力になろう!」と心に決めたしともおったのではあるまいか?(=^_^=)
♦「私は神を見ました」と劇中で“告白”してたテレサ。その「神を見た」と言う事実(?)があったからこそ、その揺るがぬ自信&信念を貫き通せたのかも知れぬ。

〜 こんなセリフも 〜

テレサ「神よ、貴方は私に何をお望みでしょうか? 私は修道女として失格なのでしょうか?」
   「ここカルカッタで暮らして20年・・私の居場所は修道院ではないと知りました。
    カルカッタの街の、最も貧しい人々の中です」
   「貧しい人々に尽くさねば」
   「神がそれを望まれれば・・必ず実現するわ。それはシンプルなこと」
   「ひたすらに祈りましょう。待つことも忘れて」
   「この子を生きさせないと・・」
   「ここではどんな差し入れでも助かるわ」
   「私が約束を守れば・・神様もきっと守って下さる」
   「選んで。私が救急車を盗み出すか、先生が私に協力して下さるのかを」
   「神が望まれれば・・必ず方法はある筈です」
   「私に力を与えてくれるのね」
   「5歳の子が路上で死ぬのにも許可が必要と?」
   「秘密は沈黙により護られます」
   「私は・・神が手に持つ“小さな鉛筆”に過ぎません。
    何を書くのか、は神のご意思次第なのです」
   「心と眼に映る喜びを忘れぬよう」
   「神が望めば資金は集まります。金額の(多寡の)問題ではありません」
   「あなたを頼っているのは私ではなく、貧しい村の人々です」
   「いつも笑顔でいると、それが周囲に広がるわ」
   「ここに来る人はみな“残りたい”と言ってくれるけれど・・1週間で(耐え切れず)去ります」
   「神はせっかちじゃないわ」
   「私の目的は人助けです・・宣伝などではありません」
   「仕事は神が与えてくれます」
   「“戦略”などは要りません」
   「休息を取れと? いずれは“永遠の休息”が待っているわ」
   「3人集まれば・・人は会社を作りたがるのね」
   「会社や数字には興味ありません・・組織化にもね。私はシンプルな仕事がしたいの」
   「暴力に対し暴力で立ち向かうのは愚かなこと」
   「あなたも私も神の手で導かれるのです」
   「ここでの仕事は大切ですが、もっと大事なのは祈りの力です。それは総ての原動力となるわ」
   「神のなさることは、ただ受け入れましょう」
   「波に押し流されて行くような感じです・・もう先には進めません」
   「何もしなければ、その1滴すらも永遠に失われます」
   「理解されるより、理解することを。慰められるより、慰めることを。
    愛されるより、愛することを。与えることは与えられること。
    赦すことで私たちは赦され・・死をもって“永遠の生命”が与えられる」 

※「人生でいざと言う時は、立ち上がらなくては」
 「ここインドに“明らかなもの”などないさ」
 「契約書にサインするまで、金は渡さん方がいいぞ」
 「あの人は・・“俺たちが見捨てた者”を懸命に世話してる・・」

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コメント

私もちょっとだけ観ました。(途中で家族のFIFAコールで断念でしたが)

オリビア、年相応のいい役やってるなぁと思いました。今度DVDか、リバイバル上映で是非観たいと願っています。

映画としてのストーリとして、苦難に打ち勝っていく♪なんて良い言葉でしょう♪惹かれるだろうなぁ。

投稿: west32 | 2010年6月15日 (火) 23時38分

westさん、お早うございます。

>私もちょっとだけ観ました。
>(途中で家族のFIFAコールで断念でしたが)

フツーのご家庭はそうでしょうね(=^_^=)

>オリビア、年相応のいい役やってるなぁと思いました。
>今度DVDか、リバイバル上映で是非観たいと願っています。

もう少し若い時代からの物語が観たかったな・・とは思いました。。

>映画としてのストーリとして、苦難に打ち勝っていく♪
>なんて良い言葉でしょう♪惹かれるだろうなぁ。

「自らの見た、神の存在」を信じ、そこに迷いなく突き進んで行く姿に圧倒されました。
その点では“近代のジャンヌ・ダルク”を思わせました。

投稿: TiM3(管理人) | 2010年6月16日 (水) 05時29分

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