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2008年5月30日 (金)

☆『呪怨/パンデミック(2006)』☆

職場の方に長々とお借りしてるDVDソフト『呪怨/パンデミック』の本編ディスクを26日(月曜)〜27日(火曜)にかけ鑑賞した。
私的に期待してるのは邦画版『呪怨(2003)』の“シリーズ第3弾”なんだが・・なかなか実現しないようである。

“爆発感染”“世界的感染”などの意味を持つ「パンデミック」をそのタイトルに冠した、ハリウッド版『呪怨(2004)』の続編。前作のラストで恋人ダグを失い、自身も精神的に傷つき隔離病棟(?)に収容されたカレン・デイビス(←前作の主人公)の妹オーブリーが、母の依頼を受け、姉を連れ戻すべく東京に向かうが、そこにまた“カヤコ(佐伯伽椰子)”の怨霊が現れ・・と言う展開。

私的に『呪怨』シリーズの“ウリ”であると思う「人名をタイトルにした章立ての構成」・・はこのハリウッド版では完全に無視され、半ば唐突にも写る切り替えで、世界規模の3ツのシーンが交互に描かれる。

・(カリフォルニア州パサディナ⇒東京)オーブリーと香港出身のルポライター=イーソンが遭遇する怪異。
・(東京)インターナショナルスクールに通う3人組、アリソン&ヴァネッサ&ミユキが体験する恐怖。
・(イリノイ州シカゴ)とあるアパートに引っ越して来たジェイク少年の巻き込まれる、隣家にまつわる秘密。

いきなり冒頭で“フライパン殺人”が描かれたのには(その余りにもの脈絡のなさに)驚かされたが、、全体的には「コレの何処が“シリーズ最恐作”やねん!」と突っ込まざるを得ない。
どうやらハリウッド版スタッフが「全世界的なウケ(それも無難な)」をまず考え、作品世界(=演出)を再構築したようなんだが、、そのせいで『呪怨』の“美味しいトコ”が全てカットされてしまったようで残念、と言うか腹立たしかった。

例えば「徳永家(元々は佐伯家)」の玄関を入ってすぐ眼の前にある階段。本作では何の演出の場にもなってなかった(×_×)
例えば邦画版でめちゃくちゃに恐かった“どす黒い人影”の演出。コレも全く取り上げられなかった。

反面、やはり嬉しかったのは「佐伯剛雄」や「いないいないばぁ爺さん」のキャスティングが(恐らく)邦画版と同一だったと思われること。(佐伯俊雄(=トシオくん)を演じた子役のみはこれまでと異なるキャスティングらしいが)

作品の設定上、東京のシーン(渋谷界隈など)が劇中の多くを占めるが、イマドキの女子高生のやや乱れた(?)生態をリアルに描いてる点では『バベル(2006)』にも似てる部分があった。
あ、あちゃらも3つのシーンが相互に絡んでたっけか・・(・ω・)

〜 ちょっと気付いた幾つか 〜

・あんなに容易く、病院の※※に上がれてエエのやろか(演出が『コンスタンティン(2005)』そっくり!)。
・前作の主人公が登場する反面、あっさりと退場・・ってのがホラー系の“お約束”なんやろか?
・3年前、2人の刑事が行方不明となった事件。既に“迷宮入り”の空気が濃厚っぽい(×_×) もうちっと粘って捜査して欲しいンですけど・・
・ヴァネッサが携帯で「WHERE R U ?(何処にいるの?)」と打ち込んでるのがスラングっぽくて良かった。
・カヤコの母親が※※※で、川倉の地蔵講が関係してて・・と言うのは妙にこじつけっぽくスッキリしない。
・総じて「ハナシが余計な方向に広がり過ぎてた」と思う。結局は「日本国内の枠を超えては成立しない作品世界」だったのかも知れない。

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☆『キアヌ・リーヴスのコンスタンティン(2005)』☆

25日(日曜)。「日曜洋画劇場」で“地上波初放送”されたモノを観た。公開当時「『マトリックス』シリーズ(1999-2003)に続くキアヌ・リーヴスの新境地だっ!」ってことで期待して観に行ったら・・結構“トホホ系”だった記憶がある。。

今回はオリジナル版(上映時間=約120分)がCMで寸断され、かつ2時間枠にぴったり収められてた(延長なし)・・と言う訳で、、オープニング周辺を含み“大幅カット”されてたようだ(×_×)

幼年期から自らが“霊視能力”を持つことに気付き、またそのことに苦しめられ続けて来た「悪魔祓い(=エクソシスト)私立探偵」ジョン・コンスタンティン(キアヌ)が、アンジェラ&イザベルの姉妹(レイチェル・ワイズ)を巡る“サタンの息子=マモンの復活”の企てを阻止すべく奮闘する・・みたいな流れ。

う〜ん・・やっぱり宗教観が全く違うからか、怖くも凄くもおぞましくも何ともない、と言うのが率直な感想。
ただし、キャスト的には
・1人2役でドッドソン姉妹を演じるレイチェルは『チェーン・リアクション(1996)』以来のキアヌとの共演。本年(2005)に同じく出演の『ナイロビの蜂』では、何と! “第78回アカデミー賞・助演女優賞”に輝いてるし! この差ってば何よ(=^_^=)
・主人公の助手キャラ=チャズ・クレーマーを演じたシャイア・ラブーフはその後『ディスタービア(2007)』『トランスフォーマー(2007)』の連続主演でそのお株が急上昇! 間もなく公開の『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』でも重要な役を掴んでるらしい。
・「俺は中立だ」とか言いつつ、劇中で最もキレやすい性格だった(=^_^=)元エクソシスト=ミッドナイト役を演じたのはジャイモン・フンスゥ。何となく「裸族系キャラ」を嬉々とし(?)演じてる印象があるが、本作ではフツ〜に着衣してますた(・ω・)
・終盤に登場するんが・・ピーター“ロシア式修理工”ストーメア。劇場でも(降臨(?)シーンで)爆笑しそうになってしまったが、何と言おうか・・“しょ〜もない役”なのである。同系列でアラン・カミングにも通じる“鬱陶しさ”すら醸し出してた。なかなかに『エンゼル・ハート(1987)』におけるロバート・デ・ニーロや『ディアボロス/悪魔の扉(1997)』でのアル・パチーノなどには叶わない印象がある、、
・私的に大好きな女優さん=ティルダ・スウィントンが好演☆ 主人公をぐりぐり足蹴にする、あの優越感に満ちた尊大な表情が素敵(=^_^=) 水槽に長時間浸かった「某銃器」を主人公に「コレを使いなさい」的に渡すんだが・・きっと「内部まで水浸し」だろうから使えんぞ、ソレ(・ω・)

以前に何かの雑誌で読んだんだが、とにかくキアヌと言えば「超なで肩」なのだ。CGで肩の造形を(削って)強調し「異能者ぶり」を語らせてるんかと思ったが・・アレはCGじゃないネ(そりゃそうだろ) タバコの吸い過ぎで「なで肩」にもなるってもんだろうか?(いや、だから違うっての)

〜 こんなセリフもありました 〜

ジョン「こっからがイヤなトコだ」
   「世界と世界が重なってる、つまり俺たちは“囲まれてる”のさ」
   「あんた、自分のぶちこんだ奴らがいる刑務所に送られることになったらどうする?」
   「神なんざ“瓶でアリを飼ってるガキ”みたいなもんだ」
   「何にだって“落とし穴”はある」
   「こっちが見るってことは、向こうからも見られるってことだ」
   「“教本”の通りにゃ行かないこともあるさ」
   「光の中に現れよ!」
   「それが(人間の)痛みさ、慣れることだな」

ガブリエル「利己的な行動で才能を浪費していますね、あなたは」

チャズ「知識は使わなきゃ意味ないだろ?」

※※※※※「うぬぼれるにも程があるわね」

※※※「地獄はテーマパークだぞ・・愉快な仲間がお前を待っている」
   「この世界は私のものだ・・やがては、な」
   「お前は生きるのだ、そして自分にふさわしいのが地獄だと証明しろ」

追記1:とにかく楽しかったのが、スポンサー紹介⇒CMに切り替わる際の画面左右の“引き止め字幕(アイキャッチ)”である。「このあと美少女の悪魔祓い」「もうすぐ衝撃映像が!」とか流れてて苦笑させられた。因みに前者に関しては(主観の違いもあろうが)決して美少女キャラじゃなかったと思うゾ。。
追記2:ただの(?)火炎放射棒を「ドラゴンの息」と呼ぶ、そのセンスからしてうさん臭い(⌒〜⌒ι) 例えば『マイノリティ・リポート(2002)』に登場した“嘔吐棒”なんかだと「堕天使の反芻(はんすう)」とか言うんやろか・・
追記3:「綿密にCGシーンを削り製作費を抑えた」印象を今回の鑑賞で受けた。「意外とロケーションが少ない」とも言えそうだ(あの“プールの間”を筆頭に、室内率がかなり高かったんでは?)。「主人公が態度だけでかい割によわよわ」なのも何だかなぁ・・と。
追記4:本作でキアヌが愛用してたのは「オリス(ORIS)」の機械式腕時計。小ぶりながら、鮮烈な印象だ。ワタシもオリスのんを1本だけ所有してるので、また使ってみようかな〜と思った次第☆

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2008年5月26日 (月)

☆『素晴らしき日曜日(1947)』☆

24日(土曜)の夜、衛星第2で放送されたものを観た。
黒澤明による6本目の監督作品。今回は終戦(敗戦)から2年後の東京を舞台に、若き恋人たちの1日の物語が紡がれる。薄っぺらなCGでは決して描けない(・ω・)、リアルな当時の東京の姿である・・

雄造と昌子はとある春間近(?)の日曜日に東京駅で待ち合わせ、週に一度のデート(劇中では“ランデブー”と言ってた・・(・ω・))をする(←当時は週休1日制だった)。
2人の所持金を合わせわずか35円。そんな精一杯の“軍資金”で2人は楽しい時間を過ごそうとするのだが・・

「セットが準備出来んならオールロケだ! スターが不在なら新人の起用だ!」とないないづくしの事情の中で、クロサワ自身、ちょっと“新境地”に足を踏み出したようだが(本作は旧友=植草圭之助氏が脚本を単独執筆し、彼の起用もまた(クロサワ映画)初である)、逆に主人公の何処か神経衰弱なキャラ像、ヒロインの決して美女と言えぬ(←済みません)その容貌と共に、実にリアルなカップルの映像を観る者に叩き付けてくれた(・ω・)

2人は仲良く、新興模範住宅(10万円)の展示場を見に行ったり、広場で少年らと野球に興じたり、戦友の経営するキャバレー“ドラム”やら、はたまた動物園に行ってみたりするも、所持金が確実に減って行くだけで少しも気持ちが晴れない。
そんな中、雨までも降って来る。
「俺のアパートへ来いよ」と誘う雄造には同意せず、昌子は「ピアノコンサートに行きましょう」と誘うが、雨中を小走りで辿り着いた公会堂では、寸前で切符が売り切れ、ヤミ切符売りとひと悶着を起こした雄造は彼らの仲間に叩きのめされる・・
失意の中、いよいよ2人は雄造のアパートへ戻る。
天井から雨漏りのする狭い部屋で、雄造は情動の命ずるまま、昌子を求めようとするが・・ってな流れ。

中盤までの約1時間がとにかく楽しい。当時の東京の“お散歩ムービー”みたいな感覚で、観てて飽きない。貨幣価値が現在と全然違うので「潰れまんじゅう3つで10円」「ぼろアパート(六畳一間)の部屋代が600円、権利金が2000円」「演奏会のA席25円、B席10円」「コーヒー5円、お菓子も5円」・・とセリフの中で並べられてもパッと換算出来なかったり(⌒〜⌒ι) だいたい今の250倍ぐらいだったんかな?

しかし・・後半からは作風が一転、暗澹とした空気が垂れ込める。昌子は泣くし、それを励ます雄造までもがしまいには泣き出してしまう。
「泣いてる彼女を慰めながら、とうとう泣いてしまう男」、、そして彼は「泣くなよ」「いいんだよ」「バカだなぁ」と繰り返すしか言葉が見つからないのだ。このシーンだけは観てるこっちまでもがボロボロっと来てしまった。

往年の消費者金融マンガ『ナニワ金融道』で言うトコロの、債務者家族が身を寄せ合って「ウウッ・・」と嗚咽するあの救いようのないシーンのようだ(×_×)

ただ、その後は雨も上がり、少しばかりは彼ら若い2人に「夢と希望の炎」が再びポッと灯る・・そんな些細な“再生感”は確かにあったし、それは観客にも伝わったことと思う。

そしてラスト。冒頭で足元に落ちていた吸い殻(俗称:シケモク)を拾おうとし恋人にとがめられた主人公は、今回は足元に転がる吸い殻を踏んづけ、そして蹴飛ばすのである。
この辺りの「何気なくも、少しだけは変われた主人公」ってな等身大の変化は爽快だったし、観ていて救われた気がした。

少なくとも彼にとって、この1日はきっと“素晴らしき休日”に終わった筈である。

〜 こんなセリフもありました 〜

雄造「俺も男だ、女のカネで遊ばして貰うなんて嫌だ!」
  「夢じゃ、腹はふくれないからな」
  「俺たちが(動物に)見られてるような気がするな」
  「金のない時間なんか・・幾らあっても仕方ないよ」
  「35円の日曜日は、35円のことだけしかなかったってことさ」
  「そろそろ愛想が尽きたろ? 野良犬だよ俺は、こんな惨めな自分がつくづく嫌になったんだ。
   惨め過ぎらぁ・・何もかも真っ暗だ、堪んねぇんだ」
  「近ごろ、誰もが俺に背中を向けてる気がするんだ・・いっそ、何かこう・・めちゃくちゃに・・!」

昌子「靴に大きな穴が開いてるのはね・・水が入った時、出て行くよう開けてあるのよ」
  「私ね、幸せな時はなぁんにも喋らないの」

昌子「あなた、変わったのね」
雄造「少し利口になったのさ」

昌子「昔は・・戦争に行く前は、あなたにも夢があったわ」
雄造「この戦争で、夢もすっ飛んじまったさ・・君だけなんだぜ、今の僕に残っているのは」

昌子「腕が痛むの?」
雄造「痛いのは、体じゃないよ」

追記1:平成の混迷の世(?)の東京を舞台に、本作の“リメイク”をぜひ制作して欲しい。雄造役は佐々木蔵之助さん辺りがイメージ的に似合ってそうな気がするけど・・(・ω・)
追記2:雨の中を、公園から公会堂へと走る2人の長回し! このシーンが特に素晴らしい!

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2008年5月25日 (日)

☆『みなさん、さようなら(2003)』☆

22日(木曜)の夜、衛星第2で放送されたものを鑑賞。
本作と言えば「第76回アカデミー賞・外国語映画賞」で同時にノミネートされた『たそがれ清兵衛(2002)』を蹴落とし、見事栄冠に輝いた作品であるも・・当時「何だよ、その人をくったようなつまんないタイトルは!」と密かに腹を立てたものだった(・ω・)

観終わった所では「まぁ、決して『たそがれ清兵衛』が劣ってた訳じゃなし・・つまりは好みの問題だな」と解釈した。ただし本作の方が「現代劇」であり「家族の交流」が(より大きな)軸となり「尊厳死」をネタに扱ってる分、『清兵衛』以上に「賞を狙い易い」映画だったことは否めないと思う。

ロンドンで証券ディーラーとして成功したセバスチャンに1本の電話が架かって来る。相手はカナダ・モントリオールの実家に住む母ルイーズで「病床の父レミの具合がいよいよ良くない」と言う。
婚約者ガエルと共に帰省したセバスチャンは、近代的な施設で専門的な検査を受けさせようと、父をアメリカの病院へ移送する。
ポジトロンCTスキャン検査の結果、レミはもはや手の施しようのない末期ガンであることが判明する。
偏屈で女好きだったこの父に、子供の頃から反発を繰り返してたセバスチャンだったが、いよいよ「別離の時が近付いている」ことを知り、彼なりのやり方で“看取り”をしようと決意する・・と言う流れ。

冒頭こそ、家族や友人がごそっと登場し、勝手気ままに次々と捲し立てるので「すわ群像劇か?」と思わされたが、実際のトコロは「父と息子が積年の確執を乗り越え、やっと向き合う」・・そこを描くための「多少回りくどい、死をネタにした」物語かな、と感じた。

面白いのは父と息子の性格の大きな違いか。「贅沢はいかん!」と頑(かたくな)に“社会主義”を信じる父は(女性関係を除いて(=^_^=))地味で慎ましやかな過ごし方をしたいと願う。反対に“資本主義の権化”とも言うべき彼の息子は「手に入るモノは、チャンスを逃さずガンガン購う」と言う自身のルールのもとに“病床の父の周囲”もまた変えて行く。

「階下の1フロアをまるごと借り、改装して(父を現在の)大部屋から移す」
「カネをばらまき、あらゆる知人&友人を見舞いに来させる」
「痛みを除くため、禁断の“ヘロイン”を密かに調達する」など・・

「そりゃあ、出来るだけ手早く、快適に過ごさせた方がイイに決まってるじゃん!」と思う反面、何だか「父に残された時間の短さに焦りつつ、思い付く限りのサービスで“失われた今までの時間を穴埋めしてる”息子の悲しさ」と言う印象も強く受けた。きっとそれは、最後の瞬間まで「金銭だけで、(伝えるべき)本当の気持ちが(相手に)伝わってなかったから」であろう。

一方で、セバスチャンが接触を持った(レミの愛人の娘)ナタリーが“ヘロイン面”の演出を一手に引き受け、息子とはまた違った角度で父と精神的な交流を深めて行く演出はなかなか。ナタリーもまた本作の主人公の1人だったのだろう、たぶん。

ラストは『海を飛ぶ夢(2004)』と同様“自らの意志で去り行く場所&時間を選択”する父の姿が描かれる。ツライよなぁ・・と思いつつ「いや、家族や友人に囲まれて逝ける」そんな死に方こそ、案外“最高”なのかも知れんな、とも感じたのだった。

〜 こんなセリフもありました 〜

セバスチャン「文明国では好きな時に音楽が聴けるんだ」

レミ「皆が思う程、20世紀は血なまぐさくない」
  「人類の歴史とは、つまり恐怖の歴史さ」
  「教会の後ろ盾があったにせよ、近代兵器もなしに、原住民が手斧やらで1億人以上殺された。
   それが“大国アメリカ”の歴史なのさ・・尤も「ホロコースト記念館」1つ建ってやしないがね」
  「やがて年老い、男は美女たちの夢を見なくなる」
  「湖で車を止めて貰えるか? もう一度見ておきたい」
  「若い頃は、死の覚悟が出来ている。だが老いると・・人生に執着が芽生える。
   そして最後に“何か”がしたくなる」
  「未来も過去も謎に満ちているのさ」
  「女なんてみんな同じ? ・・だとしても私は飽きないさ」
  「神がよそを向いてた隙に、ユダヤ人が大量にアウシュヴィッツへと送られた。これは許し難いことだ!」
  「私は永遠にいなくなるのか? まだ覚悟できない・・死ぬ意味を見つけなければ、何とか・・」
  「まるで“生まれた日”のように無力だ」

※「病気なんて、頭の中で始まって頭の中で終わるものよ」
 「今まで私を抱いて来た男は・・この体を貪り尽くして逃げてく“臆病者”ばかりだったわ」
 「(妻との)喧嘩なんて毎度のことさ、これが人生だ」

ナタリー「最初の体験が大事なの・・成功すれば“ドラゴンに乗って飛んでる感覚”が味わえるわ」
    「あなたが執着してるのは現在じゃなく過去みたいね・・でも過去なんて、もう死んでるわ」

ナタリー「ブラウンとホワイトのどちらを?」
セバスチャン「その違いは?」
ナタリー「“吸引”か“注射”か」

友人「文化的になるにつれ、性願望が高まる」
  「知性は個人レベルの問題じゃない、集団・社会レベルの問題さ」
  「君がトリュフを食べられなくなる日が来るとはね」

追記1:中盤「意外な人々」が見舞いに来る。父は「(彼らは)強制じゃなく自発的に来た、それが重要だ」と喜ぶが、、その真相が直後に描かれ、ちょっと悲しかった。。
追記2:モントリオール警察(?)麻薬課の2刑事の名が「キム」と「ノヴァク」だった・・ギャグかよ?!
追記3:セバスチャンと売人の会話が面白い。
    売人が「アスタ・ラ・ビスタ(また会おう)」と言えば、セバスチャンは「ベイビィ(じゃあな)」と返した(=^_^=)
追記4:「日本製の大型テレビよ」とか言うセリフで“トシバ”なる単語(≒固有名詞)が聞き取れた(=^_^=)
追記5:レミと友人の話してた「北京の花」「四川の竜」ってばどんな体位やろ・・(⌒〜⌒ι)?
追記6:レミの憧れた銀幕の女優たち・・イネス・オルシーニ⇒フランソワーズ・アルディ⇒ジュリー・クリスティ・・う〜ん、いずれも詳しくないなぁ(×_×)

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2008年5月24日 (土)

☆『つぐない』☆

23日(金曜)。ちょっと仕事は残ってたんだが「そろそろ観とかないと、公開が終わっちまうし!」と不安になって来たもので、いよいよ(約1ヵ月前から)観ようと考えてた筆頭の1本『つぐない』を観て来た。
劇場が梅田・ロフト地下の『テアトル梅田』だったもんで・・「狭い」「遠い」「混んでいる」とコレまたマイナス材料がてんこもりな印象のシアターなんだけど、、思ったよりは酷く混雑もしておらず、まぁまぁ寛いで観ることが出来ただろうか。
しっかし・・自分を差し置いて言うのも何だが、おっさんのソロ客が意外にちらほら目立ってたぞ?
“エロティック文芸作”なぞと勘違いしてやがったんやろか?(あ、それはオレもか、、)

1935年のイングランド。自然に囲まれた大きな屋敷に住むタリス家では、セシーリア(愛称:シー)とブライオニーの姉妹がロンドンから久々に帰省して来る兄リーオンを迎える準備をしていた。“作家志望”の13歳の少女=ブライオニーが密かに憧れる存在は(住み込み)家政婦のひとり息子ロビー。だが、彼は・・実は姉セシーリアと身分を超えた相思相愛の仲なのであった。

ある晴れた日、気持ちのすれ違いから仲違いしてしまったセシーリアとロビー。彼は謝罪の手紙をしたため「自分で渡すのはバツが悪いから」とブライオニーに託すが、その手紙は間違って封筒に入れられてしまった、極めて破廉恥な内容(・ω・)のモノであった・・

そしてリーオンが友人ポール・マーシャルを伴ってタリス家に戻り、しばらく経ったある夜・・「おぞましい事件」が起こる。たまたまその現場にやって来た“第1発見者”のブライオニーは“多感な少女ならではの残酷さ”からか「恐るべき虚言」を放ってしまう。

そしてその事が、セシーリア、ロピー、そしてブライオニー自身のその後の人生に大きな影を落とすこととなるのだった・・


う〜ん・・何だろ? ワタシとしては期待値が大き過ぎたモノか「怒る」「悲しむ」などの感情のスイッチにとんと触れない作品だった本作。
どうにも『コールドマウンテン(2003)』や『ロング・エンゲージメント(2004)』辺りの作品に先に触れてしまったがため“既視感”が先行し邪魔されたんかも知れない(・ω・)

セシーリアを演じたキーラ・ナイトレイさんに対しては『ラヴ・アクチュアリー(2003)』で彼女を(初めて意識して)観た時に感じた「うわ〜、きれぇ〜!」ってな衝撃が殆ど感じられず「アップはちょっとなぁ」「しゃくれたはるなぁ」「バストがボーイッシュ(?)だなぁ」とずんずん私評が下がってゆく一方だった(ひょっとして彼女の起用ってば“ミスキャスト”だったんじゃなかろうか?)

ロビーを演じたジェームズ・マカヴォイ。彼こそは全編を通し、単身やたらと数奇な運命を辿ってゆくが・・ラストのブライオニーの“告白”を耳にするに「それもどうだったんやろ・・?」と色々と雑念が入って来たし(×_×)
何処となくエドワード・ノートンを思わせる風貌のマカヴォイくん、今度はサイコな悪漢役にもチャレンジして欲しい。

観客の殆どはブライオニーに対し「不気味で醜悪で偽善的」と憎悪の視線を投げつけることだろうが・・ワタシは少し違った角度で「少女ローラと“あの事件”の真犯人であるあいつ」の2人に対し妙な不快感を覚えた。
ブライオニーと違って全く“主観的”に描かれてはいないので、その言動は知るよしもないが・・

幸せなタリス家の描写が(後から考えると)それほど丁寧に演出されず(意外と断片的!)、ロビーの母親と言うキャラクターも(大事なのに!)中途半端に姿を消してしまったのは惜しい。
主人公がブライオニー、ロビー、セシーリアの3人であると考えた際、どう観ても「ロビー篇」>「ブライオニー篇」>「セシーリア篇」の順にその「濃さ」と「質」が全く異なるように感じられ仕方なかった。
そしてまた、3人の女優がそれぞれ「3つの年代」のブライオニーを演じるのだが、その切り替えもどうにも唐突に写り、もっともっと有機的に(?)映像を繋げる(絡ませる)手法があったんではねぇの? と不満を覚えた。
ラスト近くでは、いよいよ老女となったブライオニーをヴァネッサ・レッドグレイヴさんが好演されるが、『ミッション:インポッシブル(1996)』以来の(?)“ご尊顔のどアップ”には「わ〜、アレから12年がちっきり経過したはるんや〜」とタジタジしてしまった(⌒〜⌒ι)

何にしても「もうそこに相手がいない」場合、どんなに加害者が“告白”と“贖罪”を重ねようとも、それはある種の自己満足にしか着地しないモノなんかも知れんなぁ・・と感じたのは事実。

ロビーが某シーンで「真実を書くんだ、韻も装飾も抜きで」と言い放つセリフがあるが・・「真実を書く」と言う行為を“彼女”が果たしてどう解釈したのか? 或いは既に彼女の中で“知性の崩壊”が始まっていたんやろか? などと色々“物語に描かれなかった余白”に想いを馳せてしまう次第である。

〜 こんなセリフもありました 〜

ブライオニー「愛ももちろん大事だけれど、分別も大切よ」
      「これは・・私の遺作であると同時に、処女作とも言える小説なの」

セシーリア「何てことするのよ! すごく高価な花瓶なのに」
ロビー「でも、もう違う(←壊れてしまったから)」

セシーリア「彼をいい気にさせないで」
     「私って何てバカなの・・自分の気持ちにさえ気付かなかった」
     「今さら、皆があなたの“告白”を聞きたがると?」

※「暑さがモラルを乱す、とも言われるわね」

ロビー「このまま、君の乗るバスが来なけりゃいいのに」
   「再開出来るかも・・僕らの物語を、あの日の僕の壮大な計画を」
   「僕は戻る・・堂々と生きるために」

※「陸にいる海軍など、あてにはならんさ」

※「軍が“戦略的撤退”を英断したって!」
※「要するに“撤退”でしょ?」

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2008年5月23日 (金)

☆『椿三十郎(1962)』☆

19日(月曜)の夜、(以前に)録画しておいたモノを観た。
HD(ハードディスク)レコーダの残量が尽きて来てるもんで、録り溜めた番組(殆どが映画)をぼちぼちDVDに焼き「外部保存」して行ってる次第だが、今回は『虎の尾を踏む男達(1945)』と『椿三十郎』の“2作セット”で1枚に焼いてみた☆
う〜ん、なかなかに“ツウ好み”な取り合わせでござんす(・ω・)

『用心棒(1961)』からわずか1年! 凄腕の浪人=三十郎がスクリーンに帰って来た!
クロサワ時代劇を代表する、快男児の活躍を描いた本作。かなり以前、知人の1人が「『椿三十郎』は面白い!」などと言ってたのを耳にして以来(その知人が余り物事を好評価しないことからも、より強く記憶に残った次第(=^_^=))、なかなか鑑賞の機に恵まれなかったが・・いよいよ観てみると流石に面白い!
ある意味「キャラクター陣(特に女性キャラ)の魅力」「全編ただ殺気立ってるだけじゃない演出」「ピンポイントで挿入された強烈な殺陣(たて)」なども含め、より“ダレ場”が少ない点などから『用心棒』やかの『七人の侍(1954)』すら凌駕してる部分も少なからずあった! ・・と私的に感じた。

冒頭。オープニングで“山本周五郎作「日々平安」より”とクレジットされた本作。
山中のお堂に集まった「9人の若侍たち」に助言を与え、ご当地の藩の汚職疑惑に絡んだ陰謀を暴いて行くのが主人公=椿三十郎(三船敏郎)。
情熱的なリーダー格=井坂伊織(加山雄三)を正しく導き、冷徹な参謀格=寺田(平田昭彦)に動くべき刻(とき)を教え、血気盛んな武闘派=保川(田中邦衛)には、冷静になれと・・行動と言葉(大抵は罵詈雑言(=^_^=))でもって指導して行く。
一方に控えるのは強敵(ライバル)となる大目付・菊井某の懐刀=室戸半兵衛(仲代達矢)。

全ての騒動を片付けた後、峠道でいよいよ対峙する三十郎と室戸。
そこに駆け付け、固唾を飲んで見守る若侍たちの前で繰り広げられた一瞬の剣戟の行方とは・・

三十郎が刀(鞘でなく白刃)を抜き、生命のやり取りをするシーンが劇中で“わずか3、4シーン”しかないんだが、それ故にそれら限られたシーンにおける抜き打ちの素早さ、容赦のなさが際立つ。
(近年の)仲代さん曰く“タコではないか、これは”ってな(=^_^=)独特な容貌の室戸に至っては、最後の最後まで真剣で斬り掛かったりはせず、不気味な「居合いの達人」の未知数ぶりをキープし続ける。

9人の若侍には含まれないが、とある展開から彼らに合流する“俗称:押入れ侍”を好演した小林桂樹のとぼけたキャラがこれまた素晴らしかった(=^_^=)
惜しむらくは、本作ばかりにおいては、余り魅力を放ってくれなかった次席家老・黒藤役の志村喬さんだったろうか・・ファンとしては、もうちょっと「ええ役」をして欲しかったかなぁ、と。

いきなりお堂で詮議してる若侍たちの描写から、三十郎の唐突な登場(この脚色も実に自然な印象で良い)・・そして、お堂の周辺では既に事件が他発的に回り始めていたのだった・・! と言う流れ。
全くもって「脚本のお手本」みたいな素晴らしさだ(⌒〜⌒ι)

前作(?)『用心棒』に比べ、市井の人々が殆ど登場せず、個性的なキャラには恵まれない(何せ『用心棒』では、ピストルを愛用してる奴までいたもんで・・)反面、ずんずん物語の進んで行く“オン・ザ・レール感覚”は更にパワーアップしていた。
殊に公開当時、劇場であのラストシーン(あの長回しの緊張感たるや!)を眺めることが出来た観客が、正直羨ましく思えてならない。

〜 こんなセリフもありました 〜

三十郎「“一番悪い奴”はとんでもねぇ所にいる・・危ねぇ危ねぇ」
   「バカ野郎、逃げるつもりならはじめっから出て来やしねぇや」
   「“盗み聞き”って奴ぁ、話してる奴より話の本筋が良く分かる」
   「手前(てめぇ)が馬鹿だと思われてるのを、気にしねぇだけでも“大物”だ」
   「間抜けな味方の刀は、敵の刀より危ねぇ」
   「さっきの見張りは3匹だが猫だ・・今のあいつは1匹だが虎だぜ」
   「其れじゃ話が美味(うま)過ぎやしねぇか? うっかり美味過ぎる話に乗ると・・酷ぇ目に遭うぜ」
   「俺はやりたくねぇ、抜けばどっちか死ぬだけだ・・つまらねぇぜ」
   「俺が斬られても“こいつら”は斬るなよ」

室戸「この男を片付けるには、だいぶ手間がかかるぞ」
  「菊井は悪知恵はあるが、人物は小さい」
  「これ迄ですな」

家老の妻「助けられてこんなこと言うのはなんですけど・・すぐ人を斬るのは悪い癖ですよ。
     あなたは何だかギラギラし過ぎてますね・・そう、抜き身みたいに。
     あなたは“鞘のない刀”みたいな人、良く斬れます。
     ・・でも、ホントにいい刀は鞘に入ってるもんですよ」

押入れ侍「奥方は私が逃げるなんて少しもお考えなさらない・・これじゃ逃げられません」

若侍ら「こうなったら、死ぬも生きるも我々9人・・」
三十郎「10人だ! 手前らのやることは危なくて見ちゃいられねぇや」

若侍A「人の気に障るようなことばかり言うのは、あの人の癖です」
若侍B「そういやぁ・・そうだな」 ←このやり取りは笑える

若侍ら「貴様の出る幕か!」
押入れ侍「今すぐ引っ込みます」

三十郎「とにかく椿が合図だ」
寺田「しかし、時々自然に散った奴が流れて来ますが・・」
三十郎「ごっそり流しゃ文句あるめぇ?!」

城代家老「お前らが謝ることないよ、わしに人望がなかったのがいかんのだ」

追記1:会話の中でのみその名の出て来る“大目付・菊井”そして“城代家老・睦田”。なかなか姿を見せない辺りがやきもきさせてくれて良かった(=^_^=) 特に後者(城代家老)ってば・・そこまでの会話から“タヌキ系”を想像してたら・・全く違う動物系だった・・! これも1つのサプライズ(=^_^=)
追記2:意外と限定的で不思議な味わいだったロケーション。冒頭と終盤の風景が同じ藩内とは・・にわかに信じ難い(=^_^=)
追記3:ラストは何故だか『アダムス・ファミリー(1991)』の学芸会のシーンを連想してしまった(=^_^=)
追記4:本作における“女性キャラの絡ませ方”は、クロサワ作品随一の素晴らしさではなかろうか。緩急のバランス面での見事な奏功に大きく貢献していた。

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2008年5月21日 (水)

☆『白いカラス(2003)』☆

18日(日曜)の夜中・・土曜の深夜、と言った方が分かり易いかも知れないが、衛星第2で放送されてた映画『白いカラス』を中盤からながら、鑑賞した。
上映時間(108分)のうち、少なくとも30分ほどを(放送に気付かず)逃してしまったことが悔やまれるが・・映像&音楽が予想以上に素晴らしく、画面に見とれてしまうことが少なからずあった。

いわゆる“ながら鑑賞”だったモノで、かなり気合不足だった自身が情けないトコであるが、アンソニー・ホプキンス、ニコール・キッドマン、ゲイリー・シニーズ、エド・ハリス、と言うハリウッドの看板的俳優陣が豪華共演してる割に、物語の空気や世界観みたいなものを彼らがぶち壊す訳でなく、抑えられた自然な演技で佇んでいた印象もあり、そこが良かった☆

両親が紛れもない“黒人”であるにも関わらず、真っ白な肌に生まれついた元大学教授コールマン・シルク(ホプキンス)の人生を、その恋愛遍歴(回想)と作家ネイサン・ザッカーマン(シニーズ)との交流を軸に描いた静かなドラマ。
中盤から観始めてしばらく、延々と青年期のコールマンの物語が展開され、全くハリウッド特有(?)のうわついた演出が見られなかったため、ついつい「タイトルが同じの、全く別な映画なんやろか?」とまで勘違いしてしまったほどだった・・(・ω・)

唐突なラストの展開にも驚かされたし、何と言ってもエド演じる(ヒロイン=フォーニア・ファーリー(キッドマン)の夫)レスターのキャラ造形がどうにも“静かに、狂気を宿してる”って風でとにかく強烈&不気味だったので、機があれば、是非観直してみたい作品である。

〜 こんなセリフもありました 〜

ザッカーマン「回春と破滅は表裏だぞ」

フォーニア「(定年)退職間近のクビを一大事と騒いでるけれど・・それは違う」

コールマンの母「私にとって、お前は白でも黒でもない」

レスター「墓場だよ、結婚なんてものは」
    「光るものに魚は寄って来るのさ、例え水面下が暗くとも」

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2008年5月20日 (火)

☆『世界の終わりの過ごし方(2006)』☆

15日(木曜)に衛星第2で放送されたものを鑑賞。そのタイトルにとにかく引きつけられ、観ることに決めた次第だが・・内容は「世界の終わりを描いたSF系作品」・・ではなく「ルーマニア社会主義共和国(当時)」を舞台に、独裁政権の崩壊前夜を描いたドキュメンタリー風のドラマだった。

1989年、ルーマニアの首都=ブカレストの郊外に住むエヴァ・マティ(17歳)とララリル(=ラリ)(7歳)の姉弟をメインに、時の独裁者=ニコラエ・チャウシェスク大統領(1918-89)による抑圧された日々の中で自由を求める市井の人々の言動を綴った内容。

う〜ん・・ホンマに市民の怒りが全編に渡り“ふつふつと水面下で”たぎっていた、、大統領に対しての、である。

姉弟の母が「チャウシェスクと神様の話は2度としないで」と言えば、
ラリは近所の怪力のおっつぁん=ブルバとのやり取りで

ラリ「僕は死んだんだ」
ブルバ「誰に殺された?」
ラリ「チャウシェスクさ」
と大人ぶった口調で吐き捨てる。

他にも

ラリが「潜水艦を作り、ドナウ川を渡って外国へ逃げるんだ」と言えば、エヴァはエヴァで、ちょっとエキセントリックなボーイフレンド=アンドレイと「(氷点下のドナウ川に見立てた)氷風呂に潜水する訓練」を重ねたりする。

こう言う映画を観ていると「共産側の市井の生活は悲しいなぁ」と思えて来る。“乾パンの配給”“不意の停電”“未舗装の道”“モノクロなTV”・・ないないづくしの生活であるが故、ご近所の結束ばかりは(日本よりは)固いのかも知れないけど。

〜 こんなセリフもありました、同志! 〜

アンドレイ「精神は外見よりずっと価値がある」

校長「国家に感謝することを学べ。模範的な市民となれ。自らのノルマを果たせ」

母「女は逃避行が好きなのよ。ママも若い頃、駆け落ちしたわ」
 「相手を良く選びなさい、人生を台無しにするわよ」

ラリ「大統領を殺せば、みんな幸せに」

※「大統領のスピーチなんか聞くより、仕事してる方がましだ」

父「大変なことに・・遂に自由になれた!」

追記1:無断外泊から戻ったエヴァ。母とのこんなやり取りもまた印象的だった。
    母「今まで何処に?」
    娘「・・結婚するわ」
追記2:アンドレイに「壮大な計画(=密出国)に対する誓いを態度で示せ」みたいなことを言われ、上半身裸体になちゃうエヴァなんだが、バストの形状とか色合いとか・・何とも“所帯染みた”感じがしてちょっとクラクラしてしまった(×_×) しかし何で脱がせるんかなぁ・・
追記3:「国民にとって、国家の終わりは世界の終わりに等しい・・」とは、実体験に基づき本作を仕上げたルーマニア人監督の言。ここから本作の印象的なタイトルが与えられたようである。

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2008年5月17日 (土)

☆『ネクスト/NEXT』☆

16日(金曜)。仕事の帰りに梅田まで出て、泉の広場上ルにある“梅田ピカデリー”で鑑賞して来た。
正直、あんまし作品自体に期待してなかったんだが、何処かで「ラストが驚愕!想定外!」みたいな絶賛(←今にして思えばその手のニュアンスでもなかった・・ように感じる(・ω・))を耳にしたもんで「ま、行っときますか」って気持ちとなった次第。
スペック的に「原作:フィリップ・K・ディック」+「監督:リー・タマホリ」なので「悪い仕上がりの訳がなかろう!」とすっかり油断してしまったのがこのワタシの“予知ミス”・・

ラスベガスのカジノ。きらびやかなこの街で中堅マジシャンとして暮らすフランク・キャディラック(ニコラス・ケイジ)。彼はそこそこのテクニックでそこそこのマジックを披露する冴えない男だったが、実は生まれながらの“予知能力者”であった。
3歳で自らの“能力”に気付いて以来「周囲に人生を乱されて来た」彼は本名(クリス・ジョンソン)すら隠し、他人によるあらゆる干渉を避け、地味に無難に生きて来たのだ。

能力の限界が「自らに関わる未来、それも2分先まで」と言う、そんなフランクが唯一の例外とし“予知”出来る存在が、見知ったダイナー(食堂)に、きっかり“8:09”にやって来る謎の女性だった。
そして彼は、今日もその時間になると、ダイナーのお決まりの席で女の来るのを待ち続けるのだ・・

一方、FBIのカリー・フェリス捜査官(ジュリアン・ムーア)は目下、ロシアから5週間前に(米国へ向け)持ち出された「10キロトンの核爆弾」の行方をチームを率い追っていた。ロス近郊に“それ”が隠されていることまでを突き止めた彼女は、最後の頼りとし「爆弾探索」の陣頭指揮をこのフランクにさせようとする。

折しも、フラッグスタッフ(アリゾナ州)の先住民居留地で子供達を教える女性リズ・クーパー(ジェシカ・ビール)がフランクの待つダイナーにたまたま立ち寄り、その時(=午前8時9分)彼は彼女をひと目見て「運命の女だ・・」と確信するのだった。

他方で、ロシアから持ち込んだ核兵器で何かをしようと目論む(何する気だ?)無法グループが密かに行動を起こし、彼らもまた“計画の障害となる男”フランクの抹殺を狙うのだった・・ってな流れ。

うーん・・何か全体的にストーリーやキャラクターの言動が支離滅裂で、脚本そのものがどうにも“破たん”してる印象があった(×_×) 原作はディックの「ゴールデンマン」と言う短編小説らしいが、こんな仕上がりになるんなら、まだしもスティーヴン・キング原作の小説「デッドゾーン」辺りをベースに、色々とアクション部分の味付けをして1本こしらえた方が(≒リ・イマジネーション)よっぽど出来が良くなったんじゃなかろうか(・ω・) 

私的にかなり気になったのは、
・徹底して客観的にしか描かれぬ「予知映像」。フランク本人からすれば、ああ言うアングルの映像では「決してない」と思うんだが。もっと斬新で驚愕の映像群が見たかった、、
・ジェシカ・ビールと共演すると、流石にきっついジュリアン姐さんのヴィジュアル・・2人の肌質の違いが隠しようもなく現れてて「如何なモノか・・」と当惑させられますた(×_×) ←CGでは処理出来んか?!
・テログループの「余りにも」な印象の薄さ。彼らの目的もキャラ造形も、殆ど語られてはいなかった。
・序盤のみ登場するアーヴ爺さんを演じたピーター・フォーク氏! 老いておられるも、一応はお元気そうだった。が、彼の客演にどんな意味があったんだ?!
・いよいよFBIに確保されたフランク。取調室で(カリーとの)どんな“演技合戦”が始まるんかと期待してたら・・TVニュースを見せ「未来のニュースから予知して!」ってひと言。あんたら・・たったそんだけのやり取りかよ! 密室だから内装にカネもかかってなさそやし。
・色んな動きのフランクがスクリーン狭しと(大人数で)動き回るんだが・・それって“予知”を超越して、ただ単に“分身”してたようにしか見えんかったぞ、、おまけに2分以内にしては、結構遠くまで歩いてるヤツもおったし(⌒〜⌒ι)
などなど・・

気にならないしとなら、気にしないんだろうけど・・私的には“作品の根幹に関わる”要素群だと思ったもんで、観ててかなりツライものがあった。。

ってことで、どう贔屓目に観ても、他人には「おススメしにくい」完成度。。

ニコラス・ケイジ、ジュリアン・ムーア、そしてリー・タマホリ・・3者それぞれのある意味「迷走ぶり」が作品そのものから如実に浮き彫りになってた気がする。。
彼らの“未来”は果たしてどんな方向へと流れてゆくのだろうか・・(・ω・)

〜 こんなセリフもありました 〜

フランク「未来は変わる、何故ならそれは“見た時点”の未来だからだ。・・そして全てが変わる」
    「能力を使って大当たりや大穴を狙おうとは思わない・・俺は神じゃない」
    「カルロッティは“美”をこう定義した。“(それを構成する)全ての部位が調和し、
     何も手を加える必要がないこと”だと。・・それが君だ」 ←イタリア人画家だっけ(?)
    「“それ”は起きたが、まだ起きてなかった」
    「(お前が迎える)どの結末も・・悲惨だったぞ」

※「それ(予知)を信じるかどうかは関係ない。雇い主が(失敗を)恐れているだけだ」

※「森に入らなければ、森で迷わないよ」 ←おお、何だか深い!(=^_^=)

カリー「この国の自由を守るためならば、鬼にもなれるわ」
フランク「では、この俺の自由は?」

追記1:ついつい聞き流してしまう、主人公と(リズの元カレ)ケンダルのやり取り。「お前、この女の何なんだ?」と問われたフランクが「未来の夫だ」とすかさず(大真面目な顔で)答えるんだが、これって案外、本作の“未来の全て”をひと言で表現した“極めて重要なセリフ”だったんやろか?
追記2:「予知って素晴らしいじゃん!」と思ったんだけど、、「未来が分かっちゃうと何もかもが面倒になったり、あらゆる言動に消極的になっちゃうかも」とも思うに至った(×_×) まるで、ネットで情報を手軽に自在に手に入れられるようになった反面、好奇心も行動力もすっかり低下しちゃうのと似てる気もする(・ω・)
追記3:(中盤以降で)意外なゲスト俳優を迎え“予知能力者バトル”を展開して欲しかったが・・それは続編かな?(いや、ないやろ!)
追記4:終盤はブライアン・デ・パルマinカンヌなあの作品(2002)のテイストから、『アレックス(2002)』そっくりなエンドロールに繋がる“既視っぽさ”だった。
追記5:「結局は回避される、現実的には無意味・無価値な“予知”シーンの特撮をちまちまと制作させられる」そんなCGスタッフの悲しみが作品全体を覆っていたようにも感じた(×_×)
追記6:“予知”による危険回避の演出の出来映えは(同じディック小説の映画化作品)『マイノリティ・リポート(2002)』の方が巧かったように感じた。

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2008年5月16日 (金)

☆『サイレン/FORBIDDEN SIREN(2005)』☆

12日(月曜)に鑑賞。直前の11日(日曜)に兄一家が遊びに来た際、彼が「録画してた『サイレン』を観て、残り30分の展開でごっつい落ち込んだ・・」とか言ってたのを耳にし、(こちらもしっかり)録画しといたライブラリから早速観ることに決めた次第(=^_^=)

まぁ、いわゆる“Jホラー”の一種な作品なんだが、離島を舞台とした一種独特かつ排他的な作品世界がなかなか巧く構築されており、それなりに楽しめた・・
が! ラストのオチで「また、このノリかよ!」とイッキに萎えてしまった・・いわゆる“シャマランショック(1999)”の影響を未だ脱し切れてない・・そんな体たらくである(×_×)

1590年、アメリカのロアノーク島で全島民117人が消失する事件が起こる。残された唯一の手がかりは「Croatan」なる謎の文字のみ。
1872年、大西洋上で無人の「マリー・セレスト号」の漂流している姿が発見さる。船室に残された航海日誌は「12月4日、我が妻マリーが」と唐突な記載で終わっていた。
1976年、日本の夜美島(やみじま)。嵐に襲われた8月2日の夜、全島民が謎の消失を遂げる。駆け付けた救助隊員らが“町外れの一軒家”で保護した唯一の生存者である男(阿部寛)は既に発狂状態。
「この島で何があったんだ?!」と問う隊員に「サイレンだ・・3度目のサイレンが鳴って・・」「サイレンが鳴ったら、外へ出てはならない・・」と彼は繰り返すばかりだった。

そして現代。ネイチャー系雑誌のライターである天本(森本レオ)は娘・由貴(市川由衣)と共にその弟・英夫(難病を患う)の療養目的でこの夜美島へと渡って来る。診療所の若手医師・南田(田中“ココリコ”直樹)のみは温かく一家を迎えてくれたが、他の島民は、隣人の女(西田尚美)や、巡査(嶋田久作)をはじめ、誰もが陰気で一種異様な空気を醸し出していた。

隣の女は由貴にアドバイスする。
「夜は出歩かないようにね。特に、森の鉄塔の周りには近付かないこと」「サイレンが鳴ったら、外へ出てはダメ」これらは昔から伝わる「島の迷信」と言うことだが・・
そんなある日、天本や英夫の前に「赤い衣の不思議な少女」が現れる。一方で、由貴は森の中に異常な殺気を感じ怯える。この島には一体何が・・?
そしてある夜、停電が発生。突如の漆黒の闇に動揺する由貴の携帯に何者かからのメッセージ「私たちはお前の周りにいる、サイレンが鳴ったら、迎えに行く」が唐突に着信する。
直後、第1のサイレンがけたたましく全島に鳴り響き・・

「人魚伝説」を軸に「集団消失事件」や「邪教集団」などのミステリー要素を豪華に詰め込んだ、、いや“詰め込もうとした”そんな造りであるが、どれもが説明足らずで、消化不良。
結局のトコロ“ラストのオチ”にみごと塗り消されてしまい「何が何だか良く分かんないや・・」的な幕となってしまった(×_×) 終盤までの盛り上げ方がなかなか良かっただけに、ああ言う“安直なオチ”に暴走してしまったことが逆に残念である・・

「深夜に大停電が起こり、続く3度目のサイレンで※※に変化が起こる」と言う“ネタ”が途中でちょろっとご披露されるんだが、その辺りから次第に「ゾンビ映画」っぽいシチュエーションに突入し始める! うーん、、めちゃめちゃに動きのノロい奴らなんで“バールのようなもの”1本でも与えてもらえたら、ワタシでもある程度は善戦出来る気がしたり(⌒〜⌒ι)

それにしても「射殺、します・・」とかブツブツ呟きながらニューナンブ(拳銃)を発砲して来る嶋田久作もなかなかに怪しい(=^_^=)が、何と言っても本作最大の見所は森本レオ氏の熱演! 温厚で物静か(そう)なこの人が、こんなシャベルの使い方を自らの子供たち(?)に見せつけるんや〜みたいな。例えば『催眠(1999)』の終盤における宇津井健さんもなかなかに壮絶だったが、本作についての“華”は何と言っても森本“シロツグ・ラーダット”レオであろう!

あと、苦笑させられたネタは「天本一家の飼い犬の名=オスメント」であろうか(=^_^=) ええ加減にせんかい! と制作陣に言ってあげたい(オマージュの一端のつもりか?)。

某ロケーションで壁に残された「DOG」「LIVE」が鏡に映ると全く別の意味合いが・・と言うのも『シャイニング(1980)』『シークレット・ウィンドゥ(2004)』辺りのパクリにしか思えない。

もう、その辺を突っ込みはじめると(=^_^=)『ヴィレッジ(2004)』や『八つ墓村(1977)』も連想されるし、ラストでいよいよ鉄塔に向かってからの主人公の行動は『ゼイリヴ(1988)』そのものとも思える。あ、『案山子/KAKASHI(2001)』っぽい世界観も・・

〜 セリフの幾つか 〜

南田「島には、島の時間が流れているからね」
  「それを壊しても、サイレンは鳴り止まない!」

※「来たぞ、ヤツらだ・・! 逃げろ、サイレンを止めろ、ヤツらに取り込まれる前に!」

※※「見ぃつけた!」 ←朝まであの廊下でぐるぐる追いかけっこしてみた〜い(=^_^=)

追記1:後半のCMあけに表示される青い画面の警告テロップ、、「このあと、光が点滅する場面が続きます。部屋を明るくしてテレビから離れてご覧ください」に妙にゾクゾクさせられた(⌒〜⌒ι)
追記2:“天本英夫”なるキャラクター名ってば怪優・天本英世(故人)へのオマージュのつもりなんだろうか?
追記3:結局のトコ、一番不可解で気になるのは冒頭の夜美島(1976年)で、窓の外に映った人影の正体だろうか。。ただ単に“ヒッチコック映画に対するオマージュ”に過ぎなかったりして(何処まで観客をからかうねん!)
追記4:“あそこ”で“あんな写真”をしっかり眺めておきながら、交番に助けを求めに行く主人公は、(それだけで)常軌を逸している、としか言えましぇん(・ω・)

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2008年5月15日 (木)

☆『わが青春に悔なし(1946)』☆

10日(土曜)に衛星第2ちゃんねるで放送されたものを鑑賞。黒澤明監督の「戦後第1作」でもある現代劇(?)には、ヒロインに大女優=原節子が迎えられた!
にしても・・原節子さん。ワタシはこれまで「『青い山脈(1949)』『晩春(1949)』『麦秋(1951)』・・と順調にステップを重ね、その才能が開花。遂に代表作『東京物語(1953)』に至った演技の極みか」・・と思ってたんだが、それが全然違ってて、本作の主演時点で、既にその演技が“完成の域”に達しておられた印象があった! これにはびっくり!
まだまだオレの知識も甘い、と言うことか・・

満州事変勃発⇒軍閥の隆盛・・と戦乱の気運高まる昭和8年。京都大学で起こった“京大事件(政府による思想弾圧)”を発端に、教職を罷免された八木原教授 (大河内傳次郎)の娘・幸枝(ゆきえ:原)を中心として、軍国化に加速する日本において「青春期を揺るがされる」こととなる若者たちを描いた大河ドラマ(?)。

何不自由なく、お嬢様生活を満喫していた幸枝を巡り、両極端な人生を辿るのは「熱き行動派の無頼=野毛隆吉(藤田進)」と「冷静な常識派のお坊ちゃん=糸川(河野秋武)」の2人。結局のトコロ、彼女は「(京都での)平穏無事な生活は・・きっと退屈になると思う。キラキラした、眼の眩むような(東京での)生活が・・怖いけれど魅力」と考え、単身上京する。
やがて昭和16年。都内(築地)に「政治経済研究所」を構えていた野毛と3年ぶりに再会、運命に導かれるかのように彼と同棲するようになる。

だが、程なく野毛は「スパイ罪容疑」で逮捕され、幸枝自身もまた「国賊=野毛の情婦」として検挙、厳しい獄中の日々を強いられるのだった。
父の計らいでやっと放免となった彼女だが、既に野毛が獄中で病死したことを知る・・

獄中では自失し、半ば枯れ果てていた幸枝であったが、回復するや毅然と「私は野毛の妻です・・!」と言い放ち、彼の遺骨を抱え、夫の実家である田舎へと走る。
老いた野毛の両親に会った彼女は、そこに自らも骨を埋める決心をし、慣れない手つきながら鍬を振り上げ、開墾の手伝いを始めるのだった。
義父母との絆が深まりつつあったある日、苦心して耕して来た田畑がめちゃめちゃに荒らされる。そこに残されていたのは心なき村民らの「賣国奴、入ル可カラズ」「スパイ、入ル可カラズ」なる“心ない立て札”だった。
義父母の眼に諦めの色が・・だが、幸枝はそんな悪意にもへこたれず、再び鍬を取り、田を耕し始める・・心の中で「私は野毛の妻だ・・!」と繰り返しながら・・

高飛車なお嬢様キャラを演じる前半。大人びたキャリアウーマンから幸せ一杯な若奥さんへ・・そして収監され、全ての感情を喪失したかのような荒んだ姿を見せる中盤。
1人の農業家とし「泥こそ我が化粧!」とばかりに顔面を真っ黒に染めながらも、キラキラとその瞳のみは秘められた生命力に輝く後半。
そして、農村で得た仲間たちを束ねる女性リーダーとし、自信に満ち溢れた態度も頼もしい終盤・・と恐ろしく多様なキャラ造形をさらりと演じてみせる。
当時、御年26・・と言うまだまだ華やかな年頃だったにも関わらず、こう言う“(ある意味)汚れ演技”に体当たりで挑んだのは何故だろう?!

上っ面ばかりを眺める限りは、原さんを超える現代(=平成の世)の女優さんは枚挙に暇がないだろうが、これほどまでに「複雑で華やかさのない演技を延々と要求される作品」を、誰が受けられるだろう? そして、何処までその要求に真摯に応えられるだろう?
そう考えると・・「やはり原節子、恐るべし・・!」と心より感服せざるを得ない。

〜 こんなセリフもありました 〜

幸枝「この世の中は、理屈ばかりじゃないと思うわ」
  「あの人は“本当のこと”を言っただけ。貴方にはあれだけのことは言えないわ」
  「良かったわね、貴方。“裏切り者”に成らずに済んで」
  「今の私は“生きていない”ように思えて・・」
  「この体も心も投げ出す・・そんな仕事に身を捧げたい」
  「貴方、秘密があるのね・・それを私に下さい」
  「いいの、行く先が怖くても・・私は平気よ」
  「この手はもう・・ピアノの上に乗せても似合わないわ」

八木原「正義は必ず勝つ。今年の花は散ったが、時来たらば・・また爛漫に咲くだろう」
   「華やかな自由の裏には、苦しい犠牲と責任のあることを忘れちゃいかん」 ←『スパイダーマン(2002)』系やね、、
   「諸君の中に、第2、第3・・無数の野毛を期待する」

野毛「“その日”が来る迄に、やれるだけのことを慌てずにやるだけのことです」
  「我々の仕事は、10年後に真相が分かって、国民に感謝される・・そんな仕事なのさ」
  「今でも親父に叱られるのが怖い、おふくろに泣かれるのが怖い」
  「顧みて悔いのない生活を・・!」

糸川「貴女の生命力の前では、僕なんか恥ずかしいな」

追記1:「素敵ね・・土の匂い!」冒頭の京都・吉田山でのピクニックシーンにおける、幸枝のこの何気ないセリフが、後々の“大きなフリ”となっている!
追記2:野毛に会うため、彼のオフィスビル前でいつまでも待ち続ける幸枝。ビルのドアガラスの内側にカメラを据え、定点的に“幸枝&行き交う人々の服装”を捉え続けたショットで“季節の経過を表現”する演出はなかなか! 『ノッティングヒルの恋人(1999)』での同様のシーンにも決して負けてないと思う。
追記3:「ピアノを弾く美しい手」と「田畑の傍を流れる川に浸す、汚れた手」を交互に写す、カットバックなカメラワークも気に入った☆
追記4:志村喬演じた、特高警察の取調べ係。キャスト名「毒いちご」って・・(⌒〜⌒ι)
追記5:原さんってワタシと全く同じ誕生日であることをウィキペディア情報で知った☆ 彼女の方が半世紀ほど年上ではありんすが、、

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2008年5月14日 (水)

☆『ミスト』☆

13日(火曜)。仕事のじわじわ忙しくなって来た影響か、家でこなしてる雑用(趣味?)の段々と溜まって来とるこの頃。ま、折角の連休(=チャンス)に全く追いつくための努力をしなかった自身の責任なのだが・・(×_×)
久々に1本行っとこう! ってことで、新作映画『ミスト』を鑑賞して来た。場所は千日前“敷島シネポップ”・・いつ行ってもロビーがそれほど混雑してない、落ち着ける劇場ではある。少し狭いのも一因とは思うが。

そもそもこの作品に決めたのは、良くお邪魔させて頂いてるituka氏のブログにおける鑑賞記事に食指を動かされたことが大きい(・ω・) 以下にURLを記載させて頂くので、機があれば是非ご訪問頂きたいトコロである。

http://blog.goo.ne.jp/ituka100mile

さて本作。暴風雨から一夜明けた、米国メイン州にある湖畔の田舎町を舞台に、突如町全体を覆うように立ちこめた霧(ミスト)によって、大型スーパーマーケットに閉じこめられることとなった人々の運命を描いた秀逸な“半群像”ドラマである。

閉塞感のノリで言うと『鳥(1963)』『サイン(2002)』、スーパーマーケットと言うロケ的にはやはり『ゾンビ(1978)』、作品世界を覆う緊迫感・絶望感は『宇宙戦争(2005)』、他に“ネタ”的なトコで『ポセイドン・アドベンチャー(1972)』『デイ・アフター・トゥモロー(2004)』『ピッチブラック(2000)』『ドリームキャッチャー(2003)』『ロスト・ワールド(1997)』『フロム・ダスク・ティル・ドーン(1996)』『ライフ・イズ・ビューティフル(1998)』『マウス・オヴ・マッドネス(1994)』・・などをチラホラ連想させてくれる。で、ラストで主人公を襲う壮絶な運命は『セヴン(1995)』のそれに通じるモノがあったかな、と。

ぼちぼちと、ネットなどで情報が流出してる辺りからも分かるように、作品世界を襲う“直接的な恐怖”ってのは、謎のクリーチャー(化けもん)達により引き起こされる訳だが・・実際に作品を観終えて感じるのは「人間の方がはるかに複雑で厄介で手に負えなくて、恐ろしいぜ・・!」と言う想い。

不愉快さで言えば・・『宇宙戦争』における、中盤(?)の暴動⇒発砲シーンがワタシの中で強烈な記憶となって(未だに)残ってるんだが、本作でも終盤でそう言うテイストの“暴走”が描かれ、あそこは観てて辛かった(×_×)

これまでに色々なパニック系、サスペンス系をそこそこ観て来たつもりではあるが、本作は「登場キャラが時に迷走し、他人に影響もされ、コロコロとその言動を変化させる」って言う“人間心理の不可解さ”を非常にリアルに描き出してて、そこは感心させられた。「主人公に説得されたから、そっからあとの物語ではずっと味方」・・かと言えば全然そうではないのだ。現実世界でもそうだけど!
またスティーヴン・スピルバーグ監督あたりが最も嫌う(恐れる?)トコロの「女子供に対しても容赦のない運命の一撃を与える」って演出も、ある意味で度肝を抜かれた! こんな持って行き方をするんやー! と。
フランク・ダラボン監督、いよいよ“定説”をぶち破りましたね! って印象も受けた(彼に対する非難も高まるだろうが・・)

主人公=ディヴィッド・ドレイトン(トーマス“パニッシャー”ジェーン)がある意味「真面目だけど印象(≒色合い)の弱い」キャラであり「この人、いつ死んでもおかしくないかも・・」、とワタシなりに“衝撃の展開に備える心づもり”を終始キープし続けた次第(・ω・)

怪人=カーモディ夫人を演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンの醸し出す存在感、そしてまた彼女の放つ“神聖で崇高なまでの悪意(=^_^=)”ってなキャラ造形は出色! ジュディ・デンチにも見ようによっては似てる気がするが、まぁそれはここではイイだろう(=^_^=)

そして! 一番の注目株は・・やはりジムを演じたウィリアム“スチュアート大佐”サドラーであろう! この人の叫ぶ「贖罪!」「ハレルヤ!」の響きが、しばらくこの両耳から離れそうにない(⌒〜⌒ι)

原作(小説)がスティーヴン・キングってことで、ついつい終盤にディヴィッドの息子ビリーが何らかの“異端者パワー”を覚醒させるんやろ・・! と予想してたワタシだが、そこは・・(以下自粛)

ってことで「対クリーチャー系な密室サバイバルアクション」と予想してたら、実は「リアルで濃厚に、人間の醜い姿をこそ描いたドラマ」である、と気付かされたのだった。
極限下で人間がどう(正常な)判断力を低下させて行くのか、狂気に蝕まれて行くのか、また“愛する家族”をどう護って行けば良いのか・・アメリカとこちら(日本)で「大きな宗教観の相違」はあろうが、例えば“世界の終わり”をシミュレーションしてみる意味などで、観ておくべき作品とは言えるかも知れない。

『ショーシャンクの空に(1994)』『グリーンマイル(1999)』路線を期待して(=感涙を流したい気分で)観に行くと、きっと激しく落ち込むこととなるだろうが、、(×_×)

〜 こんなセリフもありました 〜

※「妙な日だな、今日は」
 「霧の中に何かが!」
 「これは“解決の出来ない問題”じゃない」
 「見ようとしない者ほど、盲目の者はいない」
 「神は我々が思うほど、血に飢えてはいない」
 「朝には全てが良くなる・・」
 「政治と宗教がなければ、人間は根本的に異常な存在さ」
 「部屋の中の2人の人間は・・最後は殺し合うしかない運命なのさ」
 「悪い人には石を投げるものよ」
 「他に良い方法があれば、撃たなかった・・」

カーモディ「外にあるのは、死よ!」
     「“最後の審判の日”が来たわ」
     「此処にいる全員が悪人ではない、何人かは救える筈・・例え1人でも」
     「地獄じゃ“上告”なんか出来ないわよ」
     「この世の終わりが・・霧と共に訪れるのよ」
     「救われるか、呪われるかのどちらかよ」

ディヴィッド「泣くな、息が出来ないだろ」
      「言い訳はあるか?」
      「もしかしたら“あの人”も怖いのかも」

ノートン「“遊星からの触手X”か? 面白い」
    「もし霧の中に何かがいたとすれば・・私は愚かと言うことだな」

ビリー「僕を※※に殺させないで」

追記1:もし“この手のケース(×_×)”に遭遇したら・・取り敢えず『遊星からの物体X(1982)』の終盤、主人公マクレディ(カート・ラッセル演じる)のセリフを思い出しましょう・・「待ってみるさ、この先、何が起こるのかを」
追記2:終盤、ランクルを発車させる際、ボンネットの上に落ちていた※※を、皆が「拾わないで!」と叫んだ理由が、後々に分かって来た。にしても・・※※を敢えて拾ったこと、※※が4ツしかなかったこと(アレが3ツでも、5ツでも、物語は大きく“その終わり方”を変えていたろう!)、遂に霧の晴れるタイミングのこと、、ホンマに運命とは皮肉で不条理なモノである・・
追記3:ラスト近くのカットで、後部座席&助手席をわざわざ描写して欲しくはなかった。あそこは観客に想像させるだけで十分だったと思うぞ。
追記4:軍人さんたち(3人)の運命を辿る・・って鑑賞法もあるかも。。「30分後のバスに乗れなかった」ことで、こんな風に人生が変わっちゃうとはね・・(×_×)
追記5:この記事を書いてて、戸外は雷雨だったり・・(×_×) 明朝、大量の霧が発生したらイヤだな・・(⌒〜⌒ι)

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2008年5月11日 (日)

☆『虎の尾を踏む男達(1945)』☆

9日(金曜)の夜、衛星第2ちゃんねるで放送されたものを鑑賞。裏番組(地上波)では『少林サッカー(2001)』を確か放送してて、そちらも確かに棄て難いモノはあったが・・既に2回は観てるのもあり、今回は「後学のため」クロサワ映画を敢えてチョイスし観ることとした。

本作、制作時期がもろに戦中&戦後にぶち当たっており、フィルムの確保出来なかった問題から黒澤監督作品中最短の上映時間(59分!)となっている。ロケも役者数も(きっと製作費自体が)クロサワ映画としては“やや貧相”な出来が否めないんだが・・これがどっこい、めちゃめちゃに面白かった!
思うには「短いが故、ダレない」「ロケーション&キャスト(の数)に恵まれぬが故、描かれない(描けない)部分を(観客の)想像で補わせる余地が残され、そこに“描き過ぎない良さ”が成立した」モノと思った次第。
まぁ、役者が不足してる・・と言いつつ「大河内傳次郎」「藤田進」「榎本健一(=喜劇王エノケン)」「志村喬」・・とそうそうたる顔ぶれはちゃっかり揃えられてる訳だが(・ω・)

1185年、平家は西海に滅し、即ち源氏の勝利の旗印が立った。源氏の雄=源九郎義経は本来なら、誇らし気に都大路を闊歩すべきトコだが、“鎌倉殿(=源頼朝:義経の兄)”が家臣・梶原景時の讒言を鵜呑みにしたばかりに「義経討伐」の命が諸国に下されたのだった。
1187年、義経とその近臣6名は奥州・藤原氏を頼って北陸路を辿るが、ここに新造された加賀國(石川県)・安宅の関が立ち塞がる。山伏に化けた総勢7名は1人の強力(ごうりき:修験者に従う荷人足)を引き連れ、その強固な関所を突破しようと試みる。
さながら「虎の尾を踏む(極まりない危険を冒す、の意)」が如く心持ちで・・

元々は能“安宅”や歌舞伎“勧進帳”に描かれた故事(『義経記』に由来するらしい)をネタにした物語。安宅の関とその周辺エリアしか舞台として描かれず、従って鎌倉のシーンに転換(とかカットバック(=^_^=))などはしないし、当然「源頼朝」も「梶原景時」もその名しか登場しない。

本作で難しいのが「武蔵坊弁慶役の貫禄」「エノケンの用い方」「関守・富樫左衛門泰家を演じる役者」などだか、本作は見事「弁慶=大河内」「エノケン=強力役」「富樫=藤田」がハマっており、素晴らしかった!

本作をネットで調べるに、どうも「コメディ映画」「バロディ映画」「和製ミュージカル」みたいに簡単にジャンルを決め打ってる例が多く見受けられるが・・私的には“一級品のクロサワ時代劇”と評したい。後年の『影武者(1980)』とか『乱(1985)』なんかも、そりゃあ製作費を湯水のようにかけてる大作には違いないんだろうけど、カラー作品化した黒澤時代劇となっては「もはや再現不可能」な冒険心や貪欲さがこの1時間足らずの物語の中にしっかり込められているのだ。

予想以上に冷静かつクレバーで「五条大橋の対決時とは別人なんじゃないの?」とさえ思わせる(=^_^=)大河内の弁慶キャラ、ところどころでナニ喋ってるのか聞き取れないセリフもあったが(・ω・)藤田富樫との緊迫感溢れる問答、
「山伏のその物々しい出で立ちの謂(いわ)れは?」
「さすれば、その腰の剣は? 形あるものは斬りも出来ようが、悪霊妖魔は何をもって斬ると申す?」
「真言をもってとすれば、その真言とは?」 
などは、展開を知ってるにも関わらずゾクゾクワクワクさせられる。
到底『姿三四郎(1943)』で師弟関係だったお2人とは思えんぐらいだ(⌒〜⌒ι)

藤田富樫は、本作でも思慮深く、理知的で厳しく、それでいて何処か純朴で無邪気な関守を自然体で演じてくれた。この方の“人懐っこい笑顔”が大好きである。どっかジャン・クロード・ヴァン・ダムに面構え(澄まし顔)が似てるのも面白い(=^_^=)

そしてエノケンさん! 久々に(映像ながら)動き回る彼を見たが、まさに「エノケンに始まり、エノケンに終わる」そんな本作でもあった。原作にはないキャラらしいが、こんなに安宅の関の物語にハマるとは! こちらはふと「川端康成と柄本明とゴラム(スメアゴル)が面相に入ってるぞ!」と思え、それだけでまず笑えた(=^_^=)
ひょっとしたら、クロサワ全作品中“一番のお気に入り”となりそうな、そんな予感すらする・・

〜 こんなセリフがありました 〜

強力「将軍様ともなりゃあ、兄弟喧嘩も大掛かりなのか知れねぇが・・そもそも兄弟喧嘩なんてもなぁ、
   1つ2つポカポカと殴り合やぁ片がつく、無邪気な筈のもんでさぁ」
  「何しろこの弁慶、大根を引き抜くように人間の首をすっぽんすっぽんって引き抜いたってぇ言うからね」

片岡「(義経一行が)何に姿を変えていると申すのだ?」
強力「何だっけ・・? 薬売りじゃなし、巡礼じゃなしと・・えー・・そうだ、山伏!」

弁慶「この関1つ、打ち破るは容易い、だがその先々を何とする?
   行く末こそ大事じゃ、此処は何としても穏やかに通らねばならん」
  「勿体なや、計略とは申しながら・・」

富樫「これほどの覚悟、造り山伏(=ニセ山伏)ずれが持とうとは思われんのぅ」
  「もし、この強力が判官(ほうがん)殿(=義経)ならば、杖をもって打たるることは世もあるまい、
   己の主(あるじ)を杖をもって打つ家来のある筈が御座らん・・通られよ」
  「安宅の関守はこの富樫左衛門が仕る!」

追記1:陸軍情報局(戦前)、GHQ(戦後)の検閲に苦しめられ製作から7年後の公開となった本作。何と『生きる(1952)』と同年になった訳だ。
追記2:元々は“桶狭間の戦い”をネタに製作する予定が、ラストシーンに欠かせぬ馬が手に入らず、企画&脚本の変更を余儀なくされたらしい。もしここで『モンティ・パイソン&ホーリー・グレイル(1975)』みたいな“馬に乗ってるフリ”と言うギャグ的演出をクロサワが思い付いてたら、それはそれで恐るべきコメディ作に仕上がっていた気もして惜しい(=^_^=)
追記3:ラストシーン。エノケンが“片足ケンケン”しつつ画面左に消えて行く演出は、歌舞伎『勧進帳』で弁慶の見せる「飛び六方(とびろっぽう)」を再現したモノらしい。歌舞伎通はコレがないと納得しないんやろか(・ω・)

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2008年5月10日 (土)

☆『續・姿三四郎(1945)』☆

7日(水曜)の夜、前夜に引き続き、衛星第2ちゃんねるで放送された黒澤活劇『續・姿三四郎』を観た☆
前作『姿三四郎(1943)』のラスト(主人公の旅立ち)から2年後の明治20年。

横浜・堺町へ久々にその姿を現した主人公=三四郎(藤田進)は、港湾区でメリケン水夫に絡まれてた人力車夫の青年=左文字大三郎を助ける。「サノバガン!(Son of a Gun!):この野郎、的な意の悪態」などと毒づきながら拳闘のポーズで挑発して来る水夫を悠然と突堤に誘い出した三四郎は「うむ、ここらでよかろう」とばかりに、彼を一瞬で掴んで投げ、海中の人とする。
その勇姿を眺めていた米領事館の通訳官=布引に誘われ、三四郎は領事館で連日(?)開催されている「拳闘vs柔術」のエキジビションマッチ(公開試合)を見学する。

館内中央に設けられたリング上では、スパラー(ボクサーのことらしい)の無敗選手ウィリアム・リスターが柔術家・関根嘉兵衛と対戦する寸前だったが、三四郎はここで「待った」をかける。
「君、こんな見せ物のような仕合はやめ給え」と忠告する彼に、関根は「こうでもしなければ喰って行けない。柔術が此処まで落ちぶれてしまったのも、元はと言えば君たち柔道家に敗れたからだ」みたいなこと(愚痴?)を言い放つ。返す言葉の出ない三四郎。
試合は関根の劣勢となる・・リスターの連打を受ける柔術家、その醜態をゲラゲラ笑うメリケンの観客ら。余りにも惨い試合展開に、三四郎は領事館の扉を閉め、逃げるようにその場を立ち去る・・

一方、2年前の死闘で主人公に敗れ去った檜垣源之助(月形龍之介)の2人の弟、鉄心(月形の2役(=^_^=))と源三郎が九州からはるばる復讐を果たすため上京する。
「私闘ヲシタル者ハ是ヲ破門トス」みたいな掟を持つ修道館であるが故、矢野正五郎師範(大河内傳次郎)は三四郎に戦うことを禁じ、兄弟を追い払うが・・その日から門弟らが次々と夜討ちされる事件が勃発。
そして遂に、三四郎に憧れ入門した左文字までが闇討ちに遭ってしまった・・

遂に道場の掟を破り“破門覚悟”で檜垣兄弟の果たし状を受け取る三四郎。駆け付けた檜垣源之助との邂逅、そして想いを寄せ合う女性・村井小夜(轟夕起子)とのひとまずの別れの挨拶を済ませた主人公は、兄弟の待つ武州・天狗峠(雪山!)へと向かう・・檜垣流唐手(=空手)と柔道の凄絶な激突、果たして生き残るは・・?!

戦時中に製作されたが故か、カタカナ言葉が極端に排除されていたり、三四郎が(天狗峠に向かう直前に)拳闘家リスターと対戦し、一撃で投げ倒したり、と言う“国民感情を高揚させる”造りとなっている。

物語は前作ほど「師弟愛」「求道」「女難」と言った色合いが強調されておらず、異種格闘技の連続って趣もあり、構成としてはかなり分かり易い。尚、ワタシはてっきり空手兄弟を打ち破ってからメリケンボクサーをやっつけて幕、と言う組立てを予想してたもんで、いとも容易くリスター選手を倒した展開には、意表をつかれ、結構驚かされた(・ω・)

終盤、天狗峠でのバトルがビジュアル的に強烈な印象! 白い雪原を背景に、鉄心&三四郎が対峙するんだが、2人が異常に露出アンダー過ぎて、容貌どころか、いでたち迄もが真っ黒になってるのだ。お前らは『呪怨/劇場版(2003)』かい! みたいな。
それに、檜垣流唐手って、何か格闘技と言うより舞踏みたいだったぞ。

鉄心をついに豪快に谷底へ投げ落とした三四郎(←即死したかと思いきや・・一応助けてやったようだ)。その夜は床に伏した鉄心の看病も兼ね、峠の山小屋で兄弟と一夜を過ごすんだが・・すっかり寝入ってしまった彼の頭部を目がけ、静かに忍び寄った源三郎は隠し持った鉈を振り上げ・・

ここから先は、主演男優=藤田進ならではの爽やかさ故の“オチ”に繋がるものだ、と感じ入った。(黒澤監督とタッグを組んだ時代が違うので妄想に過ぎないが)もしこれが三船敏郎の主演であったなら、躊躇なく鉈の餌食となっていたに違いあるまい(⌒〜⌒ι)

「負かした相手をも変え得る男」・・それこそが、真の強者なのかも知れない。

〜 こんなセリフもありました 〜

和尚「近頃のハイカラ処世には稀な根性じゃ、わしは三四郎のそこに惚れておるのじゃ」
  「駄目だな、女にも惚れ切れんような小さな肝っ玉では、何も出来ん」
  「何じゃ、まるでお前が修道館を“破門した”ような言い草じゃのう」
  「道のための形は、道のために崩れても構わんじゃろうが?」
  「かけていいと悟れたら、その名札をかけに(道場に)行くがいい」
  「つべこべ言わず、そやつが消え失せるまで、お前に取っ付いてる奴を睨むのじゃ」

三四郎「勝っても悲しいことがある、勝ちたくない時もある
    ・・ところが負けられないんだ、石に齧り付いても」
   「自分の勝利が、沢山の(負かした)人を押し潰すのを見るに耐えません」
   「俺の気持ちは、一生ふらふらしている」
   「(道着を)着ろ、教えてやる。・・だが、柔道は痛いぞ」
   「朝から晩までこの体をこき使ってさえ、眠れん」

矢野「お前と私の苦労も、大きな道に達するためだ。妥協の中に真の平和はない」
  「(今日の柔道の隆盛は)この矢野正五郎のいち功名でも、姿三四郎のいち勝利でもないのだ」
  「この者(三四郎)は私の門人だが、精神は1つだ」

源之助「この私が再び勝つことなど・・天も許すまい」
   「(人力車に)幌をかけてくれたまえ、やはり・・冷える」

追記1:修道館柔道場の「3つの掟」が“私闘の禁止”“見せ物試合(出場)の禁止”“飲酒と道場汚染(嘔吐や失禁か?)の禁止”で“即刻、破門処分”なのだが、三四郎がこれら総てを破戒(?)する行動がある意味、凄絶だった(・ω・)
夜更けの道場で門下生仲間(四高弟の1人=壇義麿)とやけ酒を酌み交わすシーンに(矢野)師範がひょっこり現れ、徳利を相手に技の指南を行う。それを正視する事が出来ず、(恥ずかしさから)どんどんうなだれて行く主人公の姿が痛々しい。
追記2:病身を圧して三四郎の下宿を訪ねた源之助が、帰りにばったり(想い人である)小夜に出会い、人力車を引く三四郎に幌を下ろして呉れ、と頼むセリフもまた悲しい。
追記3:奇しくも、鉄心&源三郎の2人が本作のラストで、全く同じセリフを呟いた。
追記4:上記1〜3からも、本作が登場人物の細かい言動を注意して観るに、なかなかの深さと苦さを巧く描いていることに気付かされる。

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2008年5月 8日 (木)

☆『姿三四郎(1943)』☆

6日(火曜)の夜、衛星第2で放送されたものを鑑賞。とうとう4連休も終わっちまったな〜と寂しい気分に浸りつつ観た次第。

本作、巨匠・黒澤明(当時33歳)の“監督デビュー作”ってことで“クロサワ映画の原点”とし、幾つかの「後作に通じる演出」が早くも練り込まれていた☆
1つに「師弟関係」・・1つに「迷う主人公」・・1つに「個性的なライバルキャラ」など。

明治15年。ふらりと上京して来た(と思しき)好青年=姿三四郎(notせがた三四郎)を主人公に、若さ故の色々な迷いに苦しめられつつも、柔道の道に邁進してゆく若者の成長を描いた快作。

何がまずイイって、主人公を演じた藤田進のキャラが素晴らしい!
不器用な言動と、朗らかなその笑顔が良いのだ。黒澤監督は、デビュー作にして、もの凄くキャスティングに恵まれたような気がする。

冒頭で心明活殺流・門馬三郎道場に入門するものの、とある展開から、修道館柔道・矢野正五郎(大河内傳次郎)を師と仰ぐことになる。この辺りの“鞍替え”も中盤に控える「門馬との試合」に繋がる巧いフリとなっていた。
本作において恐らく最も語り継がれるエピソードが、「人の道に外れた柔道だ」と師に自身の柔道を否定された三四郎が、縁側の外に広がる蓮池にいきなり飛び込み、棒杭にしがみつきながら悟りを得ようとするシーン。

早朝、杭にしがみつつふと顔を上げた三四郎の眼に「一輪の白い(?)蓮の開花した姿」が・・
すかさず彼が「先生!」と叫んだ次の瞬間、障子ががらりと開いて矢野師範が飛び出して来る演出には、思わず泣いてしまった・・

夜通し障子をぴったり閉め切り、池で震える三四郎を無視したように見せ・・実は誰よりも彼のことを心配もし、まんじりともしなかった師の姿に、である(ちょっとはしてたかも知れんが)。
こんな優しさを内包した人物、ワタシには正直、思い浮かばない。

ここで一句・・ 「 先生と 呼びて障子の 開く早さ 」(季語なし)

言葉少なくして三四郎を導く矢野と対照的に、びしばし思ったままの悪態を投げつける“和尚”のキャラも、一見「うざく」映りもするが、その実“必要不可欠”なのである。『宮本武蔵(吉川英治版)』で言うトコロの「柳生石舟斎・宗厳」と「宗彰沢庵和尚」みたいなそれぞれの立ち位置だろうか。

ライバル=檜垣源之助(月形龍之介)とのいわゆる“剣難”のある一方、対戦相手である村井半助(志村喬)の愛娘=小夜(轟夕起子)との“女難”も並行し描かれる。
どちらも観てて実にまどろっこしいんだが、そこのジワジワ盛り上げる脚本こそが、黒澤監督の狙いだろうから、観る者は決して焦ってはいけないのだ(・ω・)

どうやら本作には完全版(97分)なるものが(公開当初)あったらしいが、戦時中のどさくさに紛れ「20分間」ほどのフィルムがカットされ、行方不明となってるらしい。
その部分を苦し紛れながらも補うテロップが2度劇中に挿入されたが・・少なくともワタシとしては「蓮池のシーン」「右京ヶ原での果し合いのシーン(終盤)」が(恐らくカットなしで)しっかり残っていることだけでも、素晴らしいと思いたい☆

柔道家なのに、洋装(舶来)スタイルにこだわる伊達男なライバル=檜垣の造形はなかなか☆ 筋骨隆々なプロボクサーがスーツ姿でバリッと決め、対戦相手の試合を事前偵察に来る、みたいなシチュエーションが連想される。

(父の)武運を祈るためお参りを欠かさぬ小夜に対し、(彼女が村井の娘と知り)黙って立ち去るか・・と思いきや、戻って来て「僕がその姿三四郎です、お父上のご武運をお祈りします」と律儀に名乗るシーンは「ホンマにええ奴やなぁ」と感じた(・ω・)

〜 こんなセリフも良いのです 〜

矢野「お前の柔道と私の柔道には、天地の隔たりがある。お前の柔道は人間の道を知らん」

和尚「それは命の杭。這い上がるは無念、(じゃが)杭なくば(沈んで)死ぬ」
  「三四郎に“蓮池に棒杭を見に来い”と言ってやって下さい」

三四郎「(娘が父の武運を祈る)あの美しさ以上に強いものはないのだ」
   「この戦いは、僕たちの宿命でした」

檜垣「柔道と柔術が雌雄を決する日が来よう」

追記1:「警視廰武術大會」と書かれた巨大な会場ゲートの両脇に「龍虎相撃(右)」「武術振興(左)」と書かれてるのがちょっと面白かった。明治期はホンマに「漢字の時代」やったんやなぁ(・ω・)
追記2:戦時下のアメリカでディズニーが『ダンボ(1941)』『バンビ(1942)』を作ったのもスゴいが、本作も1943年とは、すごい時代に作られたものである。世界に誇って良いのでは? と思う。

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2008年5月 7日 (水)

☆『野良犬(1949)』☆

5日(月曜)の夜、衛星第2の“没後10年・黒澤明特集”にて放送されたものを観た。
黒澤作品としては異色(でもないか?)っぽい印象もある「現代サスペンス劇」の1作。

敗戦(終戦)の影がまだ人々を色濃く覆っている昭和24年の東京。「その日は恐ろしく暑かった」と冒頭でナレーションの入る“ある夏の日々”を舞台に、元々はどちらも同じ復員兵だった2人の若者・・
新米刑事・村上五郎(三船敏郎)とピストル強盗犯・遊佐新二郎(木村功)の対照的な運命とその宿命の対決を描く。

いや〜、終戦後間もない(と言っても4年は経過してるが)トーキョーの市井が映像に残されてるなんてスゴい。高層ビルなんぞ当然まだ何処にも建ってないし、未舗装の見通しの良い大通りを刑事と容疑者が追いかけっこしたり、GIの車両群が我が物顔に通行したり・・もはや「映像遺産」の域に入ってます☆

2度目の鑑賞となった本作だが、今回はその映像群に酔いしれたものだ。
活気、混沌、人波・・無国籍な東京のイメージ。まさにアジアな雰囲気で、両側に露店の並ぶ市場に雨が降り、それの上がった道には水たまりが・・コレってまんま『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊(1995)』のビジュアルに通じる印象が!
終盤では緊張感をイッキに高めてくれる稲妻⇒夕立のシーン。いよいよ、神田・やよいホテルで佐藤刑事長(志村喬)のそばに姿を現す潜伏犯=遊佐の描き方は『激突!(1971)』であり『セヴン(1995)』である。
更にラスト、ついに遊佐を追い詰める村上との“田園⇒花畑のチェイスシーン”は、今回何故か『ブラック・レイン(1989)』のラストを連想してしまった(あちらだと双方ともバイクに乗ってたが)。

村上のキャラはパッと思いつかなかったが、佐藤はモーガン・フリーマンで、遊佐はスティーヴ・ブシェーミにキャスティングを置き換えても、リメイク版としては成り立つような気がした(=^_^=)

それにしても本作のタイトルである“野良犬”とは、果たして2人のどちらのことを指していたのだろう? 不注意から拳銃(7発装填のコルト式)を奪われ、執拗に事件(犯人)を追い求める村上のことか、拳銃を手に入れ、歯止めの効かぬままに悪党の道を暴走する遊佐のことなのか・・
立場が変われば、或いは2人の人生が逆転していたかも・・と言う部分で「考えさせられる」要素もあり、案外と“この時代だからこそ描けた深く普遍的なテーマ”を擁する作品とも言える。

・・如何に文明が高度に発達しようと、社会に格差のある限り、悪人は跋扈するのである・・

現代=平成の世の「混沌」が、静かに・・だが確実に“悪の芽”を育み続けているように。

〜 こんなセリフもありました 〜 

刑事「掏摸(スリ)ってのはね、やった本人に繋がるとは限らないよ」
  「出口が2つある建物に注意しろ!」

課長「殺しの刑事がそんな細い神経じゃ勤まらんぞ」
  「不運はな、人間を叩き上げるか押し潰すかどちらかだぞ」

佐藤「(君の)コルトがなけりゃブローニングでやっただろうさ」
  「おいおい、君は犯人にまで責任を感じ始めたのかい」
  「ピストルの弾ばかりは、ファウルボールのようなワケにはいかんよ」
  「疲れてると、堪え性がなくなってな」
  「感じ易い女の子ぐらい頑固なものはないのさ」
  「(表彰なんて大したものじゃない)こつこつ歩き回っただけさ」
  「1匹の狼のために、大勢のか弱い羊(の存在)を忘れてはいかん」
  「遊佐なんて奴はアプレゲール(戦後派、の意)じゃない・・アキレケェル(≒呆れ返る)さ」
  「想像は捜査を混乱させるだけだ、事実だけしか頼りにはならん」
  「凶器が君のピストルだったらどうだと言うんだ?」
  「最初に捕まえた犯人ってのは忘れられないもんだ・・しかし、
   何人も捕まえて行く内に、そんな感傷など消えてなくなるよ」

被害者の夫「出張前に青かった(菜園の)トマトが熟したのに、帰宅すると妻は殺されていた。
      これはどうしたことですか!?」

佐藤「今晩あたり・・来そうだな」
村上「誰が?!」
佐藤「僕は夕立のことを言ってるのさ」

ハルミ「あたしだって勇気があったら(復員兵の荷物を)盗んでたかも知れない。
    みんな世の中が悪いのよ!」
村上「それは違う! 何もかも世の中のせいにして悪いことをする奴が悪い!」

※中盤で「アキレケェル」ってなダジャレで唯一(?)苦笑させる辺りも『セヴン』に構成(演出)が似てる(=^_^=) あちらは確か・・『明るく楽しく、揺れる我が家か』とか言ってサマセット刑事(モーガン・フリーマン)が吹き出すんだっけ。

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2008年5月 5日 (月)

☆『沈黙の追撃(2005)』☆

4日(日曜)の夜、「日曜洋画劇場」にて“地上波初放送”されたモノを観た。主演がスティーヴン・セガールってことで、それだけで鑑賞時の姿勢・態度までもがダレてしまうんだが(すんませ〜ん)
「何処かに何か、きっと光るモノがある筈や」とか「(専属(?)の吹替え男優である)大塚明夫の声を聞くだけで、きっと癒しとなる筈や」とか、色々と“観るための理由”を自分の中で探しつつ、観た(=^_^=)

ウルグアイのアメリカ大使館において、シークレットサービスが女性大使を射殺した上、彼ら同士で撃ち合って全員くたばる・・と言うそれだけで1本の映画になりそな(=^_^=)惨劇が起こる。
事件の裏に、マインド・コントロール(←略して“マイコン”(・ω・))の第一人者=レイダー博士の存在があることを知った合衆国は海軍提督に命じ、博士の潜伏するダム(型の地下要塞)への特殊部隊による攻撃を開始する! ・・が、これが見事に失敗、隊員5名がまんまと捕虜になってしまうのだった。

事態を重く(或いは軽く?)みた首脳部は、政治的理由により長期間服役状態の続いている面々を仮釈放させ、博士殺害&捕虜救出&(それとお好みで)ダム爆破の指令を与える。

で、そのリーダー格として登場するのが“沈黙の男(と言いつつ、よく映画界を出しゃばり賑わす“お祭り野郎”だったりする(⌒〜⌒ι))”クリス・コーディー大佐(セガール)その人なのだった!

何だか、ご尊顔のむくみ具合とか、格闘シーンの少なさとか、逆にアップの多さとか、生え際の違和感(おっと・・)とか、、色々と気になるトコはあったものの、それなりにアクション・スターやってくれてました☆

が、脚本&演出がとんと面白くない。だらだら観るには良いんだが、テキの最大の武器が「洗脳」ってのがどうもねぇ・・「マイコン発動時」に当事者の脳内で起こる“葛藤的映像”も何度か拝めるんだが、別に怖くも何ともないし〜(×_×)

ただ、そんなつまらない進行の割に「空撮」「(多岐に渡る)ロケ」「(スタイリッシュ気取りな)映像演出」「爆発」「銃撃戦」「戦車登場(←ハリボテかも、、)」「カーアクション」などにきっちり資金かけてやってくれてたことには感心した。お茶を濁すような陳腐なセク〜スシーンもなかったし。(←濃厚なヤツならあった方が嬉しいんだけど)

思うには「セガール作品」も一種の“ファンド”みたいなもんなんじゃないか、と。超一流のエージェントたちが「過去のセガール作品のダイジェスト映像」をアタッシュケースに入れて携行し、世界各地(の資産家)を飛び回り、惚れ惚れするような話術でもって、ガンガン資金を集めてるんじゃないか、と。
そんな妄想を抱いております、ワタシ(=^_^=)

まぁこう言う“Bな作品”の場合、テキボスの死に方を当てる、ちぅクイズ的な楽しみ方もあり(楽しむなよ)・・
大抵の場合「爆死」か「墜死」か「その混合型」が多いんだが、本作もまた「吹っ飛ぶ」ってシチュエーションが見事に“B”なセオリー内にきっちりおさまってて、それだけで嬉しかった(だから嬉しがるなよ)

セガールの強引なセリフも、ひとたび大塚明夫氏の“美声”のフィルターを通せば、俄然その輝きを増すのが面白い☆
例えば、独立に揺れる街=モンテビデオの広場で悠然と「大きな騒動の渦中に居た方が、目立たない」とか決め打つんだが、ここが大塚ボイスじゃない場合「いや、おまいら、めちゃくちゃ目立ってるやんか!」と突っ込みたくなってしまう筈だ、きっと。

あ、本筋と関係ない所だが、悪党どもが“巣窟”とも言える闇企業=キリンダイルの社屋に入る際、車内では「カネのハナシなら(本社の)中でゆっくりしようや・・」みたいな“越後屋トーク”をしてるのに、そばの警備員が妙にすがすがしく「どうぞぉ、お入りくださぁい!」とか声高に放つセリフに爆笑してしまった。おまえら、コント気分かよ!

セガールファンとしては“朗報”と言うべきか? 本作では一時的にウルグアイのアメリカ大使になり済ましたセガール(いわゆる「1日ふるさと大使」みたいなもんか?)・・こうなれば(どうなれば?)この次は「なんちゃって大統領」とかにまで“暴走域”を拡大するんかも知れないネ☆

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2008年5月 4日 (日)

☆『地上5センチの恋心(2006)』☆

4日(日曜)の鑑賞。「初回上映(9:55-)のみ」「シネ・リーブル梅田(新梅田シティ内)」なる2重苦(早い&遠い)があり「早起きしなきゃ!」と思いつつも・・起床したのが上映開始の90分前だった(×_×)
駅まで向かうバスが来ず、タクシーを使ったりもし強引に劇場へと急いだ。一度「行く!」と決めたら、こっちも本気である(⌒〜⌒ι)

一貫した“小走りモード”で急いだトコ、首尾よく開始の約20分前に着くことが叶った☆ と言っても「そんなら(開始)70分前の起床でも行ってたか?」と詰問されると難しいトコだが。。

ベルギーの地方都市を舞台に、空想に生きる主婦と、自作を介し彼女に希望&夢を与え続けて来たロマンス作家の出会いと交流の日々を綴った作品。この作家はどうやらパリ在住との設定であり、フランスとベルギーは意外に往復し易い距離&親密度なのかも知れない、と知る(・ω・)

デパートのコスメ売り場で働くオデット・トゥールモンド(カトリーヌ・フロ)はジョセフィン・ベイカーの歌と作家バルタザール・バルザンの書くラヴロマンスにご執心な主婦。10年前に配管工の夫アントワーヌを亡くして以来、決して裕福な暮らしとは言えぬまでも、ルディ(兄)とスー=エレン(妹)の2人の子供を女手1つで育て上げた、たくましい母でもある。
彼女はバルザンの新作小説「平原の静けさ」の出版記念サイン会のため、バスでブリュッセルへ向かう。
憧れのバルザンとは至近距離で会うことが叶ったものの、緊張の余り、自身の名が巧く発音出来ず・・本に書かれた肝心のサインは・・

「デット様へ」 ※“デット”は“借金”と言う意味らしい(・ω・)

と言う余りにも・・な仕上がりとなった。。

長男ルディはゲイ仲間を自室に連れ込み、長女スー=エレンはバイク好きのロクデナシ兄(あん)ちゃんと2年ほど同棲生活が続いているニート娘。向かいの部屋にはトレーニングに明け暮れる夫婦、(アパートの)表では“イエスさん”とオデットのあだ名する、不思議な青年が人々を並ばせ、彼らの足を洗ってたり(・ω・)

何ともエキセントリックな人々が集結してるオデット側(?)とは対照的に、バルザンと言えば“ノーベル文学賞を狙う”大物作家オラフ・ピムスに、TV番組で最新作を“慣用句を並べ、妄想で味付けしただけの駄作。こんなモノはすぐにゴミ箱へどうぞ”と酷評され落ち込む。更に彼を絶望の渕へと追いやったのは、不仲状態の妻が、あろうことかピムスと(!)浮気している事実を知ってしまった瞬間だった。

衝動的な自殺未遂を経て、とうとう家を飛び出したバルザンだったが、行く宛もなく・・。
そんな時、彼は(サイン会で)とあるファンから手渡された1通の手紙の存在を思い出し、眼を通す。
それこそは、オデットが自らの気持ちに正直に、作家へのいちずな想いを綴ったファンレターであった・・


中年男女の主演によるミュージカル仕立てな恋愛映画ってトコだろうか。“地上5センチの高さ(←シーンによってはもっと上昇しまくる!)で浮かんでるような夢見がちな主婦”をヒロインに据えたにしては、意外と“地に足の着いた”堅実な造りのロマンスやな〜と感じた。

カトリーヌ・フロ。全然予備知識がなく、さっきも“カトリーヌ・風呂”などと誤変換されてたが、、なかなか魅力的な女優さんである☆ ネットで調べると『奇人たちの晩餐会(1998)』でヒロインを演じてた方らしいが・・流石に忘れてしまってますのぅ(×_×)
本作では「眼の辺りの雰囲気」が倍賞千恵子さんや、シャーロット・ランプリングさんにも似てたな〜って印象を受けた。
物語の序盤に「鏡がパカッと裏返って」初登場する演出も良い! ワタシはてっきり、サングラスかけてる女優さんの方が彼女かと勘違いしてましたもん(⌒〜⌒ι) ←それはお客さんじゃ!

こう言うのんで作品が悲劇に終わっちゃうと・・「それって『ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)』路線?」となっちゃうトコだけど、ラストは取り敢えず“再生”と“新たな始まり”が提示されたようで、安心して観ることは出来る。
バルザン夫婦の(結局の)関係が良く理解出来ないトコはあったが。。

「弟子たち(?)の足を洗う」「川の水面を歩く」「大きな角材を背負い、高みへ登って行く」と言った不思議で示唆に富んだ行為を我々に見せ続ける“イエスさん”の存在と共に、劇中で脈絡なく(?)映し出された日本映画が何だったのか、は非常に気になるトコロ。モノクロだったし『雨月物語(1953)』『羅生門(1950)』辺りではないかと推察するが・・

私的には、スー=エレンを演じた女優さんのキャラ(ヴィジュアルイメージ)に対する嫌悪感がどうにも高まり「このバカ娘が!」と勝手に怒りを募らせてたんだが・・後半に“とある旅”をする中で、次第にええ表情に変わって来たのが嬉しかった。
つまりは“ロクデナシの呪縛からようやく解放された”ってことなんだろう。

日本ではとにかく「家族の一員同士でも干渉し合う」と言う、良くも悪くも評価出来る伝統(?)が形成されてるが(近年はそれも次第に崩れて来たが)、本作では「生き方(≒価値観)」「生活スタイル」などに関し、例え親子であってもうるさく言い合わない・・ってな人間関係が一貫して描かれてた。
シーンによっては上空(天井の高さ)からトゥールモンド一家の各部屋を俯瞰するように映す“効果的な映像演出”が挿入されてたが、ああ言う映し方は好きである。

仕方ないトコだが・・物語も中盤を超えると、オデットの“浮遊妄想”が次第にしぼんでしまったのが私的には残念だった。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の“法廷シーン”とか『フィッシャー・キング(1991)』のグランド・セントラル駅(NY)構内のように、製作陣のほんの少しばかりの冒険心(悪ノリ、とも言う(=^_^=))と製作費の追加投入があれば、更にぶっ飛んだファンタジー世界が実現してたかも、と思うとちょっぴり残念である(・ω・) ←やり過ぎるとこれまたダメなんだけどネ

〜 こんなセリフもありました 〜

オデット「私もかつての恋愛中は、良く“顔をドアにぶつけた”わ」
    「告訴すれば? あなたにケガを負わせるような“ドア”は」
    「カーテンを開けると・・光が差し込んで来ました」
    「落ち着いて、オデット」

バルザン「なぜ、ジョセフィン・ベイカーが好きなんだい?」
オデット「私の魂は、黒人なのよ」

※「本当にアバズレな女は、決してそうは見えないもんよ」

バルザン「傷つき易いから、書けるんだ」
    「皆が、間違った場所で幸せを探している。
     だが、幸せを見つけるにはまず自分を受け入れなければならない」

作家の妻「我慢ならない男だったわ・・夫を侮辱したし」

発行人「(サイン会に)並んでるのは女性ばかりだな」
バルザン「だから書くのさ」

バルザン「(残り時間は)あとどの位?」
発行人「1時間」
バルザン「(サイン会ってのは)執筆より時間のかかるもんだな」

発行人「そんなに深刻に考えるな」
バルザン「深刻だから、君はここへ来たんだろ?」

ルディ「化粧に疎い売り子だっているもんさ、ハゲの美容師だっているだろ?」

老婆「問題ない、ですって? この状況を何も知らないくせに!」 ←この婆ちゃんも“浮遊中”かも

上司「必要のないお客にこそ、化粧品を勧めろ」

追記1:映画そのものには何も文句も問題もなかったが、、ワタシ自身の体調(メンタル面)がどうにも最悪で、観終わって以降でズンズン気分が低迷してしまった(×_×) まぁ、どうしても今日に観とかないとあかん作品だったんで、悔いはないんだが・・もそっと調子さえ良ければ、更に面白いレビューが書けたかも・・と思うと残念ではある。
追記2:ワタシの好きな「励ます立場だった側が、逆に励まされる」ってシチュエーションが“軸”になってて嬉しい☆
追記3:オデットは“良いファン”だったから良いものの、コレが『ミザリー(1990)』のキャシー・ベイツみたいなしとだったら・・恐ろしかったろうな(×_×)
追記4:製作陣は「親日派」では? と感じた本作。我々のお隣さん“C国”に関しては、余り快く思ってない空気が「※※製の安い小物よ」ってセリフから漂って来た。
追記5:劇中で“夢見る女性”の条件とし、以下が挙げられてた(・ω・)
「夕焼けの壁紙を部屋に貼ってる」「人形を集める趣味がある」「レジ係などに多い」
追記6:幾つかの“いじめ”が描かれたりもしてた。世界共通の現実なんやろか・・
追記7:「チキータ・マダム」のダンス(=ミュージカル)シーンを眺めてて・・『マスク(1994)』を連想してしまった(⌒〜⌒ι)
追記8:バルザンの“未遂”シーン・・あの状況だと「かなりヤバい」と思ったんだが・・てっきりシャマラン監督的な“秘密”があるんじゃないか、とか終盤まで勘ぐってしまったゾ(=^_^=)
追記9:エンディング寸前の映像が「DreamWorks」のオープニング映像(半月系)っぽいかも、、
追記10:『痴情!5インチの下心』なんてなパロディ作品はどうだろう(ポルノ系かよ!)

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2008年5月 3日 (土)

☆『相棒−劇場版−』☆

3日(土曜)。
4連休の始まりである・・が、私的には3、4、5日と予定が詰まっており、遠出(ドライヴ)する時間的余裕がなく、残念な感じ(・ω・)
ま、ガソリンも高いし、エアコン必須な真夏日が続いてるし、あちこちで渋滞もあろうし・・とクルマで出かけることがクレバーとも言えぬここ数日かも知れない。

ってことで、午後からの上映だったが“ワーナー・マイカル・シネマズ大日”にて新作邦画『相棒−劇場版−』を観て来た。ホントに観たいのは別作品だったし、正直『相棒』に関しては全くTVドラマ版を観ておらず、そんなに興味もなかったんだけど(・ω・)
今回も“何となく”と言うのが最大の理由だろう(⌒〜⌒ι)

※ウィキペディアによれば、元々は2000年に放送の「土曜ワイド劇場」における2時間枠ドラマが本作のルーツらしい。警視庁でちっとも出世出来ない主人公2人(との基本設定)とは対照的に「土曜ワイド」最大の“出世頭”なんじゃないだろうか(=^_^=)

警視庁・特命係(何やら捜査本部の奥まった配置にある刑事(デカ)部屋である・・)に配属されている杉下右京(水谷豊)&亀山薫(寺脇康文)の2刑事(階級は良く分からん)を主人公に、ネットで展開される“処刑リスト”に同期して起こる連続殺人事件の謎を追う推理ドラマ。
高裁判事(来生某)、元・売れっ子TVキャスター(仲島孝臣)、女性衆議院議員(自友党の片山雛子:演じるは木村佳乃)、美人(?)美容整形外科医(安永某)・・の順で“処刑リスト”の掲載内容に忠実な手段で予告殺人事件が行われてゆく(うち1件は杉下&亀山両刑事の活躍により未遂に終わる)。
杉下は、持ち前の理知的な観察眼で、現場に残された「e4」「f6」「d4」「g5」といった(スプレーによる)落書から、推理の手がかりが※※※にあると見抜く。
一方で“処刑”される直前の被害者全てに、謎の若い女性が訪ねている事実が判明。それは、5年前に“とある事件”絡みで不幸を背負ってしまった娘=守村やよい(本仮屋ユイカ)だった。

彼女の口から遂に犯人の名が語られた時、杉下&亀山は次に狙われるポイントが“東京都走:東京ビッグ・シティ・マラソン”のコースの何処かに定められているであろうことを知る。密かに仕掛けられたリモコン爆弾とそれを遠隔操作する犯人を追い詰める2人であるが・・その裏には、もう1つの大きな“秘密”が隠されていたのだった・・

どうかなぁ・・意外に脚本は「硬派」してて、ちゃんと映画らしい映像&展開を魅せてくれるんだが・・私的には後半に差し掛かるに従い、だんだんとダイナミックな刑事ドラマ⇒ずっしり重い社会派ドラマ、、とその姿が変貌して行ったように感じた。メッセージ性があるのかも知れないが、一方でラストに「この映画はフィクションです。」とテロップが表示されたりもし、ちと“弱腰”な感じだった(どうせなら、冒頭で小さく表示しといた方が効果的だったのでは? と思うワタシ)。

特筆すべきは、冒頭で空撮により描かれる、黎明の東京都心〜多摩界隈の映像だろうか。シーンは異なるんだが、雪が降ったり、雨が降ったりする中、ぐぅ〜んとカメラが屹立するTV鉄塔に近付き・・その塔頂付近からぶら下がった遺体が映し出される。ここのシーンにおける重厚なカメラワークには心を鷲掴みにされた。

本編について言えば『ダーティーハリー5(1988)』を連想させつつ『セヴン(1995)』で用いられたような“神がかった犯人像”と“それを追い詰める超ハイテクなシステム”の攻防も楽しめる(それにしても、3万の動き回る人々から特定の1人をピックアップさせる※※システムってのは・・凄まじく便利な反面、不安も感じるモノだ)。

そんな犯人側の「捜査の先手を常に突っ走る」プラン性がまさに“神がかってた”が故に、終盤で姿を現す“真犯人”の言動に妙な「バランスの悪さ」を覚えたりもした。あそこまで芸術的に一連の犯罪を組める人間が、果たしてこんな人なんかな〜みたいな(・ω・)

ま、ドラマ版を全然知らないワタシでも、中盤までの「オン・ザ・レール」な疾走感には酔わされてしまったので、GWを家族なんかで楽しむ分には、意外に「最良の選択」とも言えるかも知れない。

しっかし、劇中で3回の爆発(他にもう1つ、小爆発もあるが)が起こるんだが、いずれも観客が期待(?)するまでの大規模な爆発ではなかったのが、邦画の限界も感じさせた。。
特に※※が爆発するシーンは・・周辺エリアが吹っ飛ぶほどの爆発だと思ってたぞ(・ω・)

〜 こんなセリフもありました 〜

杉下「僕もそちらに向かいます・・!」
  「あなたは正しい・・しかし、あなたの取った行動は、間違っている」
  「人は、事件を忘れます」

追記1:中盤以降、劇中で大きなウェイトを占めることとなる“エルドビア共和国”の1件。アレだけを“ネタ”にして、ヒューマニズム系の作品が製作出来ると思った。「退去勧告(の前後)」を“オチ”にして、多角的に時間軸置換系の群像劇を撮れば・・これはもの凄い物語に仕上がるんじゃないだろうか・・!(ハリウッドで撮るべきだろうけど)
追記2:「チェス」をかじったことのある方が観たら、きっと一層の愛着がわく作品に違いありません(=^_^=)
追記3:名もなきランナー役で“友情出演”なあのしとが・・! これは笑えますね〜(=^_^=)

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☆『シャーロット・グレイ(2001)』☆

30日(水曜)の鑑賞。衛星第2放送で2日間続いた“ダイアン・レイン特集”の次は、いきなり“ケイト・ブランシェット特集”に切り替わっちゃいました(・ω・) ま、この作品も劇場公開当時、気にはなってましたんで・・

第2次世界大戦(後期?)のイギリス。パリへの留学経験がある看護師=シャーロット・グレイ(ケイト)はロンドンへ向かう列車の中にいた。客車で知り合った男=リチャード・カナリーに“出版パーティー”への出席を誘われたシャーロットは、そこで空軍青年将校のピーター・グレゴリーと出会う。
運命に導かれるように躯を重ねた2人だったが、ピーターは直後、3週間の軍務のために(ドイツ占領下にある)フランスへ発ち、やがてパリ上空を飛行中に消息を絶ってしまう。

シャーロットはピーターの行方を探す目的も兼ね、イギリス軍部(情報部?)にスカウトされるまま、“FANY(First Aid Nursing Yeomanry):応急看護師部隊”付属と偽っての女性諜報員(スパイ)としフランスへ旅立つ。折しも南部戦線では、共産主義のレジスタンスたちが、すっかりナチスの傀儡と化したビシー政権に抗い、各地で破壊工作を活発化させていた。

「日時」「場所」を指示されるがまま、機密情報を受け渡す彼女だったが、軍事訓練を経てフランスへ入国した時から、本名を棄て“ドミニク・ギルベール”なる偽名を名乗るよう命じられていた。

レジスタンスのリーダー格の青年=ジュリアン(あだ名は“オクターブ”)と知り合ったドミニクは、徐々に苛烈を極めて行くナチスの弾圧の中「自分が本当に成すべきこと」を模索し始めるのだが・・と言う流れ。

いやー・・シリアスです(・ω・)
フランス南部地方の田園風景こそ、戦時中とは思えぬ雄大さを感じさせてくれるんだが、これがちょっと市街地に入ると・・途端に戦車は走るわ、密告が飛び交うわ・・で観てるだけで息が詰まりそうだった(×_×)
最前線で自身の乗る軍用機が撃墜されるピーターの運命は確かに悲劇なんだが、無抵抗なままひたすら精神的に追い詰められて行く占領下の市井の人々の運命もまた、恐怖であり、悲劇なのである。

身近な人々が、ある日突然やって来た役人や警察(ナチスを伴う)に連行されてしまう、と言う描き方は、何処へ連れて行かれ、どうなるのか迄が“映像的に一切描かれず”想像するしかないため、より一層の不安感・喪失感を観る者に与える。
アウシュヴィッツの悲劇を歴史の教科書で知っているが故、連れて行かれた彼らの運命がうすうす感じ取れるのも辛い。

劇中でシャーロットは、3度の決心を「誰に言われるでもなく」下すのだが、それぞれが死の危険と隣り合せであったこと(最後の決意のみは戦争そのものとは異なる、死のイメージを伴わないものだったが)から、女性を突き動かす究極&最大のモノは「愛」なのかもなぁ・・と再認識させられたものである。少なくとも、そこに金銭や保身、名誉や愛国心は(殆ど)絡んではいなかった。

※劇中で「身の安全を保証するから、抱かせてくれ」と持ちかけて来るおっちゃんに対する、彼女の態度からも、それは良く分かることである。

本作のヒロインでありながら、武力的なアクション(行動)は“殆ど”何も出来なかった彼女だが、それ故に「心(精神)の強さ」が丁寧に巧く描かれた半ロマンス映画とも言えた。
そして「抑圧された環境の中で、自分が今何をすべきで・・何が出来るのか」を導くヒントを示唆してくれる、小品だけれど忘れがたい1作と評したい。

〜 こんなセリフもありました 〜

シャーロット「あの頃はすべてが単純に思えた、善は悪に勝つのだと」
      「嘘でさえも真実となる・・予測不能の状況下では」
      「危険なのは工作員も飛行機乗りも同じ筈よ」
      「才能を使うことが義務だと言われたら?」
      「何かが出切るはず・・逃げないわ」
      「戦争は、人を愚かにするか殺すかだわ」

ピーター「今日まで生き残った自分を勇敢と思えと? ただの偶然だよ」

ジュリアン「接触場所以外では僕を無視しろ」
     「(険悪なムードの)最後はいつも“食べろ”だな、親父」

ルバド「国のためじゃないだろ? みんな愛する者のために戦うのだ」
   「こんな国になるまで長生きしたくはなかった」

追記1:最後の最後、本作のタイトルがただシンプルに『シャーロット・グレイ』と付けられた理由が分かる☆
追記2:諜報員としての訓練の中で「信頼、希望、愛、の中で一番大切なものを選べ」と言われ「希望」を選んだ主人公だった。この“フリ”も全てを観終わってから思い返すと、じわっと余韻が押し寄せるものだ。
追記3:本当に必死になれば、ほんの少し運命を動かせる瞬間があるのかも知れない、と言うことを語ってもくれているようだ。

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2008年5月 2日 (金)

☆『理想の恋人.com(2005)』☆

29日(火曜)の鑑賞。
2夜続きで、ダイアン・レイン主演による近年の恋愛モノを放送してくれた衛星第2ちゃんねる、天晴である!

本作も昨日の『トスカーナの休日(2003)』と同様、(夫ケヴィン)との離婚によって“喪失”しているサラ・ノーラン(ダイアン)をヒロインに、その“再生”への道のりを描いたラヴロマンス作品。
ただ、そこに至る「軸」として用いられたのは、異国での新生活じゃなく、インターネット上の“デートサイト”なのであった(・ω・)
その辺が、何やら軽薄な印象ではあったが、反面、中年のおっさんとしては・・ここで描かれた“恋愛に不器用な男女たち”を眺めてて、実に愛おしく思ってしまったものだ(=^_^=)

さて、今回もモテモテなサラ。勤務する幼稚園で出会った(園児オースティンの父)ボブ・コナー(ダーモット・マルロニー)、そして妻(リサ)と別れ、新しい出会いに対し過敏になってる男=ジェイク・アンダーソン(ジョン・キューザック)が男性陣の筆頭格だ。
サラの一家は大家族であり、71歳になってなお、異性との交流に熱を上げる父ビル(クリストファー・プラマー)や、色々と世話を焼く姉キャロル&妹&弟がことある毎に集まってはワイワイ騒いでる感じ。

恋愛モノらしく、明言&珍言(=^_^=)が全編に渡りちりばめられてる感のあった本作☆

「わし」「なのじゃ」系の言い回しが似合わぬ、若々しくダンディーな雰囲気の父親像をさらりと演じ切ったプラマー氏がナイスであり、何とも“自嘲キャラ”の極まってる印象(=^_^=)だったキューザックはもはや「ウッディ・アレン状態」であったし、終盤に向かっての“男女のすれ違い演出”に、まんまと乗せられ(⌒〜⌒ι)妙にドキドキさせられてしまったこの映画。

いつかまた“愛すべきジジイ”のお手本的な作品として、きっとじっくり観直すような日が来るのかも、知れないのぉ(=^_^=)

〜 こんなセリフもありました 〜

キャロル「“お茶にしましょう”・・それがアイルランド式の解決法よ」
    「あなたは、生きてるとは思えない」
    「“感情豊かで話し好きの男”なんてなかなかいないわ」
    「(避妊具がない時)私は食品ラップで代用したわ・・9ヶ月後に子供が出来ちゃったけど」 ←駄目じゃん・・

サラ「犬はいいわ、苦手な野菜を平らげてくれる」

弟「姉さんは、いじけてなきゃ美人だ」

ジェイク「美しく負ける、それは勝利にすら勝る」
    「女の頭の中じゃ、すべてが計算済みなのさ」
    「(デート中の)ハナシのネタを準備してたが・・全部忘れた。君のそのドレスのせいかな?」
    「知り合った時こそ、男女は素直になるべきだ」
    「傷は人を成長させる、傷が癒えれば、また強くなれる」
    「重苦しい映画は、決してリメイクされないのさ」

園児「“おじさん”が来た夜、僕はママと眠れないんだ」 ←おおっ(=^_^=)

ビル「例え何と呼ぼうと、バラはバラさ」
  「これは喪失感を埋めるためのデートだ、分かるか?」
  「私は(木造)ボートには素人だが、芸術が何かは分かる」
  「苦しむのは男だ」

※「絶対に怒らないでね」
サラ「それって恋人を奪った時の常套句ね」

店員「何だったら、悩みを訊こうか?」
サラ「あなた、バーテンもやってるの?」

サラ「遅いわ、もっと飛ばせないの?」
ジェイク「これ以上(アクセルを)踏み込むと離陸するぞ」

客「気が変わったら(ボートを売る気になったら)電話しろ」
ジェイク「もし、人格が変わったらね」

ドリー「男に浮気されると、女はすぐに気付くものよ」
   「(登録のプロフィールは)嘘じゃなく宣伝よ。中古車と同じ、何だって書けばいい、試乗させれば勝ちよ」
   「恋愛には痛みがつきもの」

※「デートしなさい、どんどん年を取るわよ」

追記1:ダイアンが“恋愛モード”に突入する時、彼女は髪をほどき、パーカーのジッパーを少し下げ、胸元をご披露するんだが、これがなかなかに・・良い!
追記2:避妊具を探し、夜の街を走り回る男女、、やがて女性がぽつりと「魔法が解けたの・・」と言うのが悲しかった(×_×)
追記3:41歳と自称するドリーの元に、15歳のジェレミー君(間違いなく童貞くん)が押し掛けて来る・・ドリーは「実は43歳なの」と謝り、少年を帰らせる。直後、立ち会っていたサラにぽつりと「本当は50歳を超えてる、なんて言えないわ」と漏らすシーンに妙な余韻があった・・
追記4:女性を抱いた後、軽薄で利己的な男がどう変わるか、、その見本の1つが本作で提示されている(・ω・)
追記5:“双方”の離婚原因が余り明確にされず、少々未来が不安なエンディングでもあったが・・?
追記6:サラが“一方”と結ばれた場合・・サラ・コナーとなるんやね(⌒〜⌒ι) そうなると、息子が誕生したら“ジョン”と名付けるしかないのか、、

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